6
アンサンブルメンバーに選ばれたのだから、課題曲はしっかりと練習しなければならない。 本格的に音を合わせる特までに、実力のある者たちと遜色ないレベルまでは、技術や楽譜の理解度を高めておかなければならない。 「日野、夏休みは何処に行くんだよ」 土浦が心配そうに声を掛けてくれる。親分肌の土浦はクラスでもまとめ役で、当然ながらも香穂子のことにも気を配ってくれていた。 「山梨のワイナリーでお世話になるんだ」 「山梨? だったら俺のおばあちゃんの家や月森、加地の別荘にも近いかもしれないな。冬海の別荘も…。住所は分かるか?」 「うん」 香穂子は、行き方が書かれた紙を土浦に差し出すと、驚いたように見つめた。 「本当に皆と近いな。これなら休み中は、一度集まって練習することが出来るかもしれないな…」 「本当に!」 上手い者たちと練習をするのは、香穂子にとっては勉強にもなる。 この素晴らしい偶然に感謝したい気分だ。 「だったらみんなで集まって練習することが出来ないかな?」 「ああ。調整しておく。みんなと一緒に練習出来るなら、お前の携帯にメールする」 「うん、有り難う土浦君。感謝するよ」 香穂子が明るく真直ぐな笑みを浮かべて言うと、土浦は目を細める。 「…お前は凄く頑張っているからな。俺はそれだけで尊敬する。しっかり頑張ろうぜ。お互いにな」 「うん」 香穂子が元気良く返事をすると土浦はふわりと頭を撫でてくれる。 それがとても気持ちが良くて、香穂子は思わず目を閉じずにはいられなかった。 こうしてみんなが気遣ってくれる。 なんて幸せ者なのだろうかと、思わずにはいられない。 こうして陰や陽向で支えてくれるひとがいるからこそ、頑張って前を向いて歩いていけるのだろうと、香穂子は思っていた。 夏休みが始まり、香穂子は荷物をまとめて山梨へと向かう。 「山梨か! 今年はさ、私もその方面で避暑をする予定なんだ! だから、一度、香穂子のところに訪ねて行くね! とても楽しみにしているから」 同室の天羽が快く送り出してくれる。 今年はなんてついているのだろうか思う。天羽にも逢えるうえに、アンサンブルメンバーとも練習することが出来るのだから。 「うん! 楽しみだよ」 「近くに行ったらメールで連絡をするから」 「うん。有り難う」 香穂子は思わずスキップしたくなる程に浮かれながら、山梨へと向かった。 電車を乗り継いで山梨の最寄り駅に到着すると、ひとの良さそうな中年夫婦が迎えに来てくれていた。 「日野香穂子さんですか?」 「はい」 「やっぱり、坊ちゃんがおっしゃった通りのひとだよ!」 女性は香穂子を嬉しそうに見つめてくると、ぽっちゃりとした手で握手をしてくれた。 「あ、あの…」 坊ちゃん。 あしながおじさんは、意外に若いのだろうか。 香穂子が不思議そうに見つめると、女性はしまったとばかりに、直ぐにごまかすように笑った。 「い、いやね、ぼ、坊ちゃんの知り合いの方からあなたを夏休みの間受け入れて欲しいと打診があったらしくてね…」 誤魔化す余りにしどろもどろに話す女性が可愛くて、香穂子は思わずくすりと笑った。 「私を受け入れて下さって有り難うございます。これから夏の間お世話になります。宜しくお願いします」 香穂子が頭を深々と下げると、夫妻はホッとしたように微笑んでくれた。 「じゃあ車でワイナリーへと向かおうか。詳しい話はそこでしよう」 口数は決して多くはないが、実直そうな主人に、香穂子は好感を覚えた。 ワイナリーで使用するだろうバンに乗り込み、香穂子は笑みを零す。 この夏は忘れられない夏になるような気がする。 きっとこんなにも楽しい夏休みはなかったと、思わずにはいられなくなる日々が始まるのだろうかと、期待に胸を膨らませていた。 ワイナリーの近くになると、流石に葡萄を栽培している農家があちこちで見られるようになり、香穂子は思わず声を上げる。 圧巻される美しい葡萄畑の風景に、ここが日本だということを忘れてしまいそうになった。 瑞々しくも美しい夏の風景。 これ程までに癒される風景もなかなかない。 このような場所を手配してくれたあしながおじさんに、感謝せずにはいられなかった。 「凄く綺麗なところで、ここで過ごせるなんて嬉しいです!」 香穂子が声を弾ませて言うと、夫婦は嬉しそうに笑ってくれた。 「本当にあなたのような良い子をゲストに迎えられて嬉しいよ」 妻のぽっちゃりとした柔らかな顔が満面の笑顔になり、香穂子も釣られて微笑んだ。 葡萄畑を抜けて、素朴な美しさを持つ建物が見えてくる。 ワインの本場であるフランスのワイナリーになる瀟洒な農家のような可愛くて美しいたたずまいだ。 「あの家がそうだよ。私たち家族が住まわせて貰っているんだよ。3階だけはここのオーナーの別荘になっているんだが、お忙しいのかめったに来られないんだよ。お嬢さんの部屋は、3階に用意しているよ。富士山も見えるとても眺めの良い部屋だよ」 「有り難うございます。何でも言って下さいね。手伝いますから」 香穂子がにっこりと笑うと、妻は嬉しそうに頷いてくれる。 「有り難うね。その気持ちだけで充分に嬉しいよ」 妻の笑顔が、香穂子には眩しかった。 ワイナリーの母屋に着くと、早速、部屋に案内してくれた。 住居の中もロマンティックなフランス田舎家屋風で、香穂子はうっとりと見とれてしまった。 「あなたの部屋はこちらよ。防音がされているから、快適に過ごして貰えると思うからね。ヴァイオリンの練習を心置きなくして下さって良いからね」 「有り難うございます」 なんとも至れり尽くせりの家なのだろうかと思う。本当に綺麗で、香穂子は夢見心地な気分になった。 「はい、こちらですよ」 静かに開いたドアの先には、落ち着いたロマンティックが満ち溢れた内装のベッドルームがあった。 可愛いデザインのベッドに、家具。 こんなに素敵な家を他に見たことはないのではないかと、香穂子は思った。 「ここで夏休みの間は過ごしてね。あちらにはドレッサーに、ライティングデスクがあるから。後、奥はバスルームがあるから、使って下さいね」 「有り難うございます」 個室にバスルームが付いている部屋なんて、ホテルの客室や寮の部屋以外は見たことがない。 香穂子は余りにもの立派さに目をまんまるにするだけだった。 「今日はここまでの旅で疲れたでしょう? 夕食までゆっくりとして下さいね」 「有り難うございます」 香穂子がにっこりと笑うと、妻は頷いて、ドアを静かに閉めてくれた。 こんなにも素敵なワイナリーを持っているオーナーなんて、今まで見たことがない。 香穂子は、すぐ窓を開けに行って思わず歓声を上げる。 まさに絶景だ。 こんなにも麗しく見える富士山を、香穂子は知らない。 「綺麗…」 夏の爽やかさを滲ませた風を浴びながら、香穂子はこれから始まる素晴らしき夏休みに想いを馳せていた。 その頃、ワイナリーの管理人である主人が電話を掛けていた。 「日野さんですが無事に到着しましたので。今はゆっくりとしています。え? 久し振りにお越しになるんですか! そいつは嬉しいです。そうですね、確かに何処でも出来る仕事ではありますね」 主人は久しぶりに声を弾ませて話をする。 「ではおまちしていますので」 電話を切ると、丁度、妻が階段から降りてくる姿が見えた。 「暁彦坊ちゃんが見えるらしいよ」 「それは嬉しいね!」 ふたりは久し振りの来客ににっこりと微笑んだのは、いうまでもなかった。 |