*愛の願い*


 翌朝の目覚めはとても良くて、香穂子は朝早くに身仕度を整えると、早速キッチンへと下りていった。
「まあ! そんなことをされなくても良いですのに!」
「何か手伝わせて頂き帯んです」
「いいえ。ヴァイオリニストさんの手ですからね。傷付いてしまったら困りますからね」
「大丈夫ですよ。そんなに気にはされないで下さいね」
 香穂子はテーブルに皿を並べたりと、できる限りの手伝いを行なう。
「何かあったら、本当に言って下さいね。ちゃんと手伝いますから」
「有り難うね。あなたは本当に優しいね…」
 しみじみと妻は言うと、香穂子を目を細めて見つめた。
「本当に気にはされないで下さいね。私に出来ることがあったらしますから」
「有り難う」
 香穂子がにっこりと笑うと、笑い返してくれた。
 朝食が終わると、夫婦ふたりは葡萄畑へと向かおうとする。
 香穂子を置いて行こうとするので、思わず着いて行こうとした。
「ひとりでいるのもつまらないので、連れて行って下さい」
「疲れたり、陽射しに焼けたりしてしまうよ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと日焼け止めを塗って、帽子を被って行けば大丈夫ですよ」
「しかしね」
 主人は気が進まないように言うと、香穂子を見つめる。
「やっぱり一緒に行きたいんです。ワイナリーでの経験は貴重ですからね」
 香穂子が明るく言うと、主人は完敗とばかりに溜め息を吐いた。
「じゃあ行くか」
「有り難うございます」
 香穂子が笑うと、主人も気難しい顔を僅かに綻ばせた。

 葡萄畑に到着をして、香穂子は手伝いにせいを出す。
 こんな経験は初めてだから、本当に楽しかった。
「葡萄にヴァイオリンの音色を聴かせたら、喜んでくれるでしょうか?」
「そうだねえ。喜んでくれるかもしれないね」
 妻の言葉に、香穂子はにっこりと笑うと、持ってきたヴァイオリンを構えて奏で始めた。
 幾分か清々しい夏の風を受けながらヴァイオリンを弾くというのは、とても幸せだった。
 ヴァイオリンを弾き終わると、夫妻は大きな拍手をくれた。
「本当に有り難うね。葡萄もきっと喜んでくれると思うよ」
「有り難うございます。そう言って頂いて、とても嬉しいですよ」
 ヴァイオリンを弾くことで、こんなにも喜んで貰えるのが、香穂子には嬉しくてしょうがない。
 本当にヴァイオリンを弾くぐらいしか取り柄なんてないから。
 そのヴァイオリンも、誰よりも優れているのかと言われると、全くと言って良い程に自信がなかった。
 香穂子は午前中は農作業を手伝い、お昼は母屋に戻って、素朴な食事を頂く。
「本当に美味しいです。お昼ご飯を作れるようになりたいので、色々と教えて下さいね」
 香穂子はワイナリー横の畑で取れた野菜をふんだんに使った料理に舌鼓を打ちながら、幸せな気分に浸っていた。
 本当に幸せで、思わずにこにこと笑ってしまうほどだ。
 昼食の後片付けをした後は、一時間程昼寝をして英気を養った。
 これはワイナリー夫妻が進めてくれたことだ。
 その後は小一時間宿題をした後で、ヴァイオリンの練習を行なった。
 充実した一日。
 こんなにもご機嫌で素敵な一日は、他にないのではないかと思う程だ。
 夕食の手伝いをしようとキッチンに下りていくと、管理人の妻が楽しそうに働いていた。
「何をされているんですか?」
「来週、坊ちゃんがやってくるからその準備なんだよ。余り甘いものは召し上がらないけれど、ワイナリーのワインで漬けたドライフルーツを使ったケーキだけは食べるからね。だから、その準備だよ」
「お手伝いして良いですか?」
「どうぞ。こちらからお願いしますよ」
 香穂子は、手順を訊きながら、たどたどしくはあるが手伝っていく。
「坊ちゃんって方に逢うのが少し楽しみですよ」
「坊ちゃんはとても良い方だから、あなたも直ぐにうちとけると思いますよ」
「坊ちゃんって方は、私と同じぐらいの年の方ですか?」
「とんでもないです。坊ちゃんは31歳ですよ。あなたよりも15歳は離れていますよ。だけど、私どもは子どもの頃から存じていますから、いつまで経っても“坊ちゃん”なんですよ」
 本当に幸せそうに笑う管理人の奥さんを見つめながら、香穂子は温かい気分になる。
 “坊ちゃん”はあしながおじさんの知り合い。
 ならば、何か手掛かりを得ることが出来ないだろうか。
 香穂子もまた、まだ見ぬ“坊ちゃん”に逢うことを、こころから楽しみにしていた。

 ゆったりとした日々を過ごしながら、夏休みのご機嫌な日々は過ぎていく。

 わたしの大切なあなたへ。
 素晴らしい夏の提供を有り難うございます。
 とても充実しています。
 香穂子

 あしながおじさんへの手紙の筆も弾んでいた。

 “坊ちゃん”がやってくる前日はとても忙しくて、香穂子も夫妻の手伝いを一生懸命行なった。
 勿論、ワイナリーのワインで漬けたドライフルーツを使ったケーキは、レシピを教えて貰いながら取組む。
「アールグレイの紅茶がとても合うから、それを淹れましょうね、明日は」
「本当に美味しそうです。良いレシピを教えて頂きました。感謝しています」
「坊ちゃんもヴァイオリンがお好きだから、是非とも明日はヴァイオリンを演奏して欲しいの」
「はい。頑張りますね」
 香穂子が笑顔で請け合うと、奥さんはまた満面の良い笑顔で返してくれた。
「よくお手伝い下さいました。有り難う。これで明日は、坊ちゃんを受け入れるだけで済みそうですよ」
 管理人夫妻が笑って礼を言ってくれたのが、とても嬉しかった。

 夕食の後、携帯電話を見ると、土浦からメールが入っていた。

 日野へ。
 明日の午前九時から午後四時まで、ワイナリー近くの練習場所を確保出来た。ついては集合出来るか?

 香穂子は直ぐに管理人夫婦に事情を説明しに行くと、笑顔で受け入れてくれた。
 直ぐに了承のメールを返信する。
 いよいよ熱い夏休みが本格的に始まるのだ。
 香穂子はこころを期待いっぱいに満たしていた。

 翌日、ワイナリーで自転車を借りて、香穂子は練習場所へと向かった。
 そこに着くと、アンサンブルメンバーがフルで集まっていて驚いてしまった。
「偶然だが、みんなこの時期はこの辺りで過ごすことになっているからな。これから定期的に練習出来そうだ」
 土浦は嬉しそうに言い、メンバーたちを練習場所へと案内してくれる。
 そこに入れば、誰もがアンサンブルに対して真剣になる。
 その真剣さや厳しさはプロにも勝る。
「ここのヴィオラは少し主張が強すぎる。もう少し弱く出来ないか?」
 土浦が言えば、
「ここのクラリネットはもう少し伸びやかに」
 と柚木も言う。
 誰もが良いハーモニーを作り出す為に、真剣に議論していた。
 香穂子は、議論をする仲間たちの仲立ちをしたり、或いは気後れしている冬海を励ましたりする。その役目に楽しさと嬉しさを感じていた。

 クタクタになるまで練習をして、爽快な気分でワイナリーへと向かう。
 帰りは途中まで冬海と一緒だ。
 ふと吉羅暁彦のことを思い出した。しかし吉羅を想い浮かべるだけで生まれる甘い緊張で、結局は吉羅のことを何も言えなかった。

 ワイナリーに帰ると、何処かで見たことあるようなフェラーリを見つけた。
 鼓動がダンスを始める。
 ほんのりと甘い緊張を抱きながら、香穂子は声を掛ける。
「おじさん、おばさん、ただいま戻りました」
「まあ、お帰りなさい」
 奥さんと共にダイニングから出て来たのは、吉羅暁彦だった。



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