*愛の願い*


「…吉羅さん…?」
 香穂子は驚く余りに目を見開く。
「こんばんは、日野君」
 吉羅は相変わらずクールな態度で挨拶をする。
 いつものスーツ姿とは違って、カジュアルなスタイルだったが、それでもセレブリティな世界の住人であることを滲ませている。
「まあ、おふたりとも知り合いだったのね! それでは話が早いわね」
 奥さんは安心したかのように、ニコニコと笑っている。
「あ、あの…知り合いというよりは、顔見知り程度というか…」
 香穂子が困ったように言うと、吉羅は僅かに笑っていた。
「おばさん、手伝いますよ! あ、あの、直ぐに支度しますね」
 吉羅の薄い笑顔を見て動揺してしまい、香穂子は逃げるようにキッチンへと入っていく。
「じゃあサラダを作って貰いましょうかね。お肉は焼くだけだし、野菜とお魚のグリルはオーブンで焼いているしね」
「張り切っていますね」
「そりゃあ! 坊ちゃんが来るのは、本当に久し振りだからね!」
 奥さんは本当にこころから吉羅を歓迎しているらしく、イキイキとしている。
 香穂子は、背中で吉羅の存在を意識しながら、サラダを作るのに夢中になるふりをした。

 夕食の時間になり、香穂子は吉羅の向かい側に座るはめになる。
 吉羅の姿がいやがおうでも視界に入ってきてしまい、意識せざるをえない。
 甘いドキドキに鼓動が満たされて、落ち着けなかった。
 いつもならば、管理人夫妻ととりとめのないことを話すのに、今日に限っては緊張する余りに上手く言えない。
 黙って食べていると、ちらりと奥さんが香穂子を見た。
「どうしたんだい? 香穂ちゃん」
「あ、おばさんのコンソメスープは美味しいなあって、どうしたらこのレシピが出来るんだろうって、考えていたんです」
「じゃあ今度一緒に作ろうか?」
「お願いします」
 香穂子が素直に笑顔で頷くと、吉羅がちらりとこちらを見ているのに気付いた。
 耳たぶまで紅くなってしまう。
 どうして良いのかが分からなくて、吉羅を正面に見ることが出来なかった。
「日野君、今日はヴァイオリンケースを片手に出掛けていたようだが、何処かにヴァイオリンを弾きに行っていたのかね?」
「学院の創立祭で演奏するアンサンブルメンバーに選ばれたんですが、たまたまメンバーたちが夏休み期間中にこの地域にいるので、集まって練習をしていたんです。滞在期間はみんなバラバラなんですけれど、今の時期だけは重なっていたので、集まって練習することになったんです。みんな切磋琢磨出来て勉強になりますよ。笙子ちゃんも来ているんですよ」
「冬海家の夏はいつもこちらで過ごしているからね。私も顔を出そうと思っている」
「そうなんですか」
 香穂子は緊張する余りに、ぎこちない返事しか出来ない。
「頑張りたまえ。ところで、食事が終わったら、ヴァイオリンを弾いてはくれないかね? 君がどれだけ上達したのか、知っておきたいと思ってね」
「はい。では、食事が終わったら一曲弾きます」
「頼んだ」
 吉羅はそれだけを言うと、また黙って食事をする。
 静かな食卓だが、何故だか心地が良い。何処か甘い緊張が胸を貫いていた。

 食事が終わり、昨日、管理人の妻と一緒に作ったパウンドケーキとアールグレイが並べられる。
「香穂子ちゃんと一緒に作ったんですよ」
 吉羅の前にケーキを差し出しながら、奥さんは機嫌良く呟いていた。
「それではヴァイオリンを弾きますね。曲は、ラフマニノフのラプソディです」
 香穂子は頭を深々と下げると、ヴァイオリンを構えて奏で始める。
 ヴァイオリンの曲のなかでも、香穂子が最も好きな曲のひとつだ。
 ただヴァイオリンに集中をしながら、香穂子は背筋を伸ばして堂々と奏でてみせた。
 曲が終わると、香穂子は脱力をしたようにヴァイオリンを肩から外した。
「日野君、ポピュラーもレパートリーにあるかね?」
「映画音楽だとか、カーペンターズやビートルズなら…」
「ではそのあたりで一曲奏でてくれないかね」
「判りました」
 夜だということで、それに相応しい曲を選択する。
 カーペンターズやビートルズは亡くなった両親が大好きであったから、よく奏でたものだ。
 香穂子はヴァイオリンを再び構えると、ビートルズの“ゴールデンスランバー”を奏で始めた。
 極上のまどろみ。
 夜にはぴったりの曲だ。
 香穂子は、まるで子守歌を奏でるような気分で、ヴァイオリンを弾く。
 静かに情緒豊かに、そしてこころがリラックスして貰えるように。
 香穂子は集中してヴァイオリンを奏でていた。
 弾き終わると、吉羅が大きく拍手をしてくれる。
「…創立祭の時よりも上手くなっているね。正直、私は驚いたよ」
 吉羅はよく響く低い声で、彼なりに褒めてくれる。それが香穂子には何よりも嬉しかった。
「嬉しいです。こうして褒めて頂けるのは」
「私は事実しか言わない人間でね。良くも悪くもね」
 吉羅は感情のない声で呟いた後で、フッと笑った。
「さあ、君もパウンドケーキを食べると良い。ヴァイオリンの演奏を有り難う」
「こちらこそ聴いて下さいまして有り難うございました」
 香穂子はにっこりと笑いながら頭を下げると、次席に戻ってケーキを食べ始めた。
「香穂ちゃん、ものすごく良かったよ! まるでコンサートにでも行った気分になったよ」
「有り難うございます」
 管理人夫妻は打ち解けた笑顔を向けながら、香穂子を褒めてくれる。それが香穂子には嬉しくてしょうがなかった。
 席に着いて、香穂子は早速パウンドケーキを食べる。
「…これ…、ものすごく美味しいです。売っても構わないんじゃないでしょうか?」
 香穂子はまだまだ食べられるぐらいに美味しいと思いながら、ケーキを味わう。
「今日のケーキは香穂ちゃんに沢山手伝って貰ったからね。だから特別に美味しいのかもしれないよ」
「それだったら、ものすごく嬉しいです」
 香穂子は笑顔を満面に浮かべながら、ケーキをたっぷりと味わっていた。

 朝はいつもの時間で目を覚ます。
 毎日、管理人夫妻の手伝いでワイナリーの畑に出るのが、恒例になってしまっていた。
 朝早くの作業に同行して、ヴァイオリンを奏でるのがとても嬉しい。
 朝の清々しい光のなかでヴァイオリンを奏でるのは、香穂子にとってはかなりの貴重な経験だからだ。
 その上、作業の後のおにぎりのシンプルな朝ご飯が、とっておきのものだと思ってしまうほどに、美味しかった。
 香穂子がキッチンに下りると奥さんがちょうど準備をしているところだった。
「おはようございます、手伝うことはありませんか?」
「じゃあ、おにぎりを握って貰おうかね。おかかと野沢菜と梅干し。三つずつね」
「はい」
 香穂子は言われた通りにおにぎりを作り、いつものタッパーに詰めていく。
 出汁巻きや簡単な野菜サラダなどは奥さんが作ってくれた。
 お弁当が出来上がると、香穂子は踊ってしまうくらいに嬉しくなった。
「香穂ちゃん、じゃあお弁当を持って畑に行きましょうか?」
「はい。行きます」
 香穂子はヴァイオリンを片手に持ち、お弁当をもう片手で持つ。
 こんなにもご機嫌な朝の過ごし方はないと思う。
 香穂子と妻が畑に行くと、そこにはいるはずがないと思っていた吉羅がいた。
「…吉羅さん」
「私も、素晴らしい朝を過ごしたいと思ってね」
 吉羅の姿がやけに眩しかった。



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