9
爽やかな朝陽を浴びる吉羅は、とても綺麗だ。 朝陽が似合うタイプではないが、清々しい陽射しにも愛されているのではないかと、こちらが錯覚をしてしまいそうだ。 「吉羅さんは来られないのかと…」 「ここに滞在している時は、よくご主人たちの手伝いをするよ。子どもの頃からの日課だからね」 「子ども!?」 吉羅に子ども時代があったなんて、失礼だが想像出来ない。 「…君はまるで私の子ども時代がなかったように思っているんじゃないかね?」 吉羅は苦笑いを浮かべながら、わざとらしく怒ったような顔を向けて来た。 「そ、そんなことは…ありますね。いつもテーラードスーツできっちりしている吉羅さんの子ども時代の姿は想像出来ないです」 香穂子がペロリと舌を出して認めると、管理人夫妻も苦笑した。 「坊ちゃんはやんちゃなそれは可愛い子どもでしたよ。子どもらしい子どもでした」 ちらりと奥さんが吉羅を見ると、何だかバツの悪そうな顔をしている。 吉羅が子どもらしい子どもだなんて、本当に想像出来なかった。 「さてと作業にかかりましょうか。いつもの倍の人数がいるから、作業も早く済みますよ。終わったら朝ご飯にしましょうね」 「はい」 香穂子はいつものように張り切って作業を始める。 住み慣れた横浜近郊の生活も好きだが、こうしてのんびりとスローライフを気取るのも悪くはないと、最近思うようになった。 これもこのワイナリーが温かな場所だからだろうか。 遠い昔に無くしてしまった何かを見つけたような、そんな安らぎがここにはある。 香穂子は自分の作業に夢中になっていると、つい足下が疎かになる。 「…や…っ!」 そのままコケてしまいそうになったところで、がっしりとした腕に躰を捕らえて貰った。 「…あ…」 想像したよりも逞しい腕に、香穂子の血液は沸騰して流れを速める。 息が出来ない程にときめいてしまい、暫く動くことが出来なかった。 「…有り難うございます…」 「作業に夢中になるのは構わないが、自分の周りにもきちんと気を配りたまえ。君はヴァイオリンを弾いている時も、そんなきらいがあるからね」 苦言を呈するところが、何とも吉羅らしいといえばそうなのだが。 「…はい。すみませんでした」 香穂子が謝って離れようとしても、吉羅は暫く離してはくれなかった。 「…あ…」 吉羅も気付いたのか気付かなかったのかは解らないが、そっと躰を離してくれた。 作業に戻ってからも、躰には吉羅の力強さや香りが残っている。 それらが香穂子をくらくらさせた。 作業をしながらも、つい吉羅を意識してしまう。 鍛えられた肩のラインも腕もしなやかでとても力強い。 細身なのに綺麗に筋肉がついていて、芸術で捻出される肉体美よりも綺麗だと思った。 こんなに美しい躰を持つ男性は、他にいないのではないかと思う。 白いシャツに朝の瑞々しい陽射しが滲んで眩しい。 うっとりと吉羅の肉体をつい見つめてしまう。 香穂子は、自分が余りにも女であることに驚いてしまい、吉羅から視線を外すしかなかった。 作業が終わったと同時に、奥さんから声がかかる。 「みんな、朝ご飯にしましょうね!」 声を掛けられて、香穂子は朝食場所へと向かった。 近くの水道で手を洗って、朝食準備の手伝いをする。 朝ご飯は至ってシンプルなもの。おにぎりに漬け物、味噌汁に、後は野菜の簡単な煮物だ。 香穂子はそれをプラスチックの皿に取り分けるのを手伝った。 吉羅に手渡す時に、思わず震えてしまう。 相手はかなりの大人で、香穂子を恋愛対象として見るはずのないひとなのに、つい意識をしてしまう。 こうしてまだ一日も一緒にいないというのに、完全に囚われていた。 「…どうぞ」 「有り難う」 いつも朝食から、立派なコンチネンタルブレックファーストを食べそうな吉羅が、こんなにもシンプルな朝食を 食べるなんて想像出来ない。和食を食べるとしても、高級旅館に出てくるようなものではないかと思ってしまう。 「何だね、また奇妙な顔をして。どうせ私がこんな朝食を食べそうにないとでも思っていたんじゃないかね?」 吉羅がからかうようなまなざしを向けて来たので、香穂子は思わず頬を赤らめてしまう。 「そ、そんなことは、ないですが…」 香穂子が誤魔化すように言っておにぎりにかじりつくと、吉羅は喉の奥を軽く鳴して笑った。 このひとが笑うんだ。 香穂子は新鮮な驚きの余りに、吉羅を見てしまう。 「どうしたのかね? 全く、君は私を変わった動物のように見るのが好きだね」 「そ、そんなことありませんっ!」 香穂子がムキになって否定するのが面白いのか、吉羅は本当に楽しそうな笑みを浮かべていた。 「今日のおにぎりは香穂ちゃんが作ってくれたんですよ。よく手伝ってくれるので、本当に助かります」 香穂子を褒めてくれる奥さんの言葉が、妙にくすぐったい。 だが悪くない気分だ。 香穂子は朝食を食べ終わると一足先に片付けをして、ヴァイオリンを片手に立ち上がった。 「葡萄にヴァイオリンを聴かせて来ますね。美味しくなりますようにって、ちゃんとおまじないを掛けておきますよ」 香穂子が葡萄畑に行こうとすると、吉羅も立ち上がった。 「私もお供したい」 吉羅も手早く片付けると、香穂子に着いてくる。 背後に吉羅のオーラを感じるだけで、香穂子は緊張を隠すけとが出来ない。 葡萄畑の中心に来ると、香穂子は吉羅に向かって一礼をした。 「…それでは、今から葡萄さんたちに楽しい音楽をお届けします」 香穂子は明るく宣言をすると、ヴァイオリンを奏でた。 朝にぴったりな曲をと、ヴィバルディの春を選択する。 夏の早朝にはぴったりな曲だ。 弾いていて清々しい気分になれた。 春を奏でた後、香穂子は大好きな“メリー・ポピンズ”から、“ご機嫌な日”を選択して奏で始めた。 まさに今日はそうなるような予感がする。 朝から、こんなにもときめいているのだから。 香穂子はご機嫌に楽しい曲を奏でた。 ヴァイオリンを肩から下ろすと、吉羅が拍手をくれる。 「葡萄も喜んでくれているだろうね。良いワインが出来そうだ。ワイナリーのワイン樽倉庫のなかでヴァイオリン コンサートをしたら、ワインはさぞかし喜ぶたろうね」 吉羅は腕を組みながら、我ながら良いアイディアとばかりに微笑んでいる。 「管理人ご夫妻が良いとおっしゃるなら、やってみたいです」 「彼等なら良いと言うだろう。ワイナリーオーナーの立場で言うと、了承するね」 「吉羅さんがオーナーなんですよね…」 「そうだね。名ばかりだけれどね…。殆どは管理人夫妻に頼んでいるけれどね。彼らには感謝しているよ」 吉羅の表情が本当に柔らかくなり、とても優しい魅力的な表情になる。 ドキリとするような甘い表情に、香穂子は思わず見惚れてしまっていた。 「喜んで来る観客は沢山いるだろうから、コンサートを企画すれば良い。小ぢんまりとしたコンサートは誰もが楽しんで貰えるだろうからね」 「温かなコンサートが開けたら、私は凄く嬉しいです。小ぢんまりとしているのが丁度良いんです。温かくて、 本当にこころから楽しめるものが出来たら嬉しいです」 「…だったら企画しよう。そうだね、私の夏休みの最後の日が良い。来週末だ」 「そんなに急に…! だけど嬉しいです!」 香穂子は嬉しい緊張に笑みを零す。 小さな小さな自分だけのコンサートに胸を弾ませていた。 |