11
リサイタルが中止。 そんなことがあって良いのだろうか。 頭の中が真っ白になって、香穂子は何も考えられなかった。 「…あ、あの…」 悔しくて堪らなくて涙が魂の奥から滲んでくる。 だが泣きたくはなかった。 泣いてしまえば負けだと思った。 香穂子は肩を震わせて、一生懸命涙を堪える。 本当は泣きたかった。 吉羅の胸で大声をあげて泣きたかった。 だが、出来ない。 ここでそんなことをしたら吉羅の迷惑になってしまうから。 どうしても出来ない。 肩を震わせて我慢をしていると、吉羅が優しいまなざしを向けてきた。 甘やかさないで欲しい今は。 対峙しなければならないから。 「…解りました。大切な観客の皆様に怪我をさせないためにも、仕方がないことですから」 香穂子は涙を堪えると、何とか笑ってみせた。 我が儘を言ってもしょうがないのだから。 香穂子は、これだけがチャンスではないと自分に言い聞かせると、吉羅に笑顔を向けた。 「…日野君…」 吉羅は頷くと、香穂子にそっと近付いてきた。 「日野君、今日から片時も私のそばから離れてはいけないよ。良いね? 君を守る。私は…、君が望むようにリサイタルが開けるように、最大限の力を貸そう。理事長として出来ることをする」 「有り難うございます」 吉羅の優しさが嬉しくて、香穂子は洟を啜る。 何とか涙を堪えると、理事長室では、“生徒”で居続けた。 吉羅の仕事が一段落し、ふたりで六本木の家に戻る。 車の中でも、吐きそうになるほどの切ない想いを我慢していた。 ここでも泣くことはしなかった。 まだだめだ。 もうすこしだけ我慢しなければならない。 香穂子は自分に言い聞かせると、何とか我慢をした。 夕食の買い物の時も、香穂子はいつもどおりに振る舞った。 吉羅に無駄な心配をかけたくはなかったからだ。 「今夜は私が健康的な食事を作ろう。君が元気になるように」 「有り難うございます。とっても楽しみです」 吉羅のさりげのない気遣いに感謝しながら、香穂子はなるべく明るく振る舞った。 ミッドタウンの吉羅の家に戻り、ようやく安堵する。 吉羅とふたりで夕食の準備にかかった。 何かをしなければ、泣いてしまいそうだったからだ。 吉羅も香穂子の気持ちに気付いてか、黙って手伝わせてくれた。 ふたりでかなり健康的な食事を作った後で、向かい合わせになって食事をする。 香穂子は吉羅と顔を合わせた瞬間、涙がポロポロと零れ落ちるのを感じた。 ようやく緊張の糸が切れた。 吉羅とふたりきりになって、ようやく切なさを出すことが出来た。涙が込み上げてきて止まらない。 「…香穂子…」 吉羅はこの上なく優しい声で名前を呼んでくれると、強く抱き締めてくれた。 ようやく総てを解放させることが出来る。 吉羅の逞しい胸に顔を埋めると、香穂子は声をあげて泣いた。 「…よく我慢をしたね…。君は…」 吉羅は、香穂子の背中を優しく何度も撫で付けてくれながら、額に柔らかなキスをくれた。 「泣いたら良いんだ。我慢をすることはない…」 「暁彦さん…」 香穂子が素直になって泣きじゃくるのを、吉羅はしっかりと抱き留めてくれる。それが嬉しかった。 何よりも癒された。 こんなにも吉羅に愛されている。 心底そう感じることが出来た。 散々泣いている間、吉羅は黙って支え続けてくれていた。 それが何よりも有り難かった。 ようやく一通り泣き終えた後で、吉羅は香穂子の腫れた瞼にキスをくれた。 「泣きすぎて不細工でしょう?」 「そんなことはないよ。泣き顔の君は充分愛らしい」 吉羅は、香穂子を見守るかのようにフッと微笑むと、心ごと守るように柔らかく抱き締めてくれた。 「…香穂子、少し食事をしようか…? 折角、ふたりで力を合わせて作ったものが冷めてしまったら勿体ないからね」 「…そうですね…」 香穂子は何とか泣き笑いの表情を浮かべながら頷いた。 食事を軽く取る。 泣きすぎてしまったから、余り食欲はない。 だがそれでも一生懸命食べて頑張ろうと思った。 食事を終えた後、吉羅が後片付けをしてくれる。 じっとしているのが嫌だったので、香穂子も手伝った。 食事の後、吉羅が膝枕をしてくれた。 頭をずっと撫でてくれる。 こうして甘えられるのが嬉しい。 今、素直な気持ちを出すことが出来るのは吉羅だけなのだ。 「今夜はゆっくりしたまえ…。明日もゆっくりして、明後日から切り替えていけば良いから」 「はい。有り難うございます」 ゆっくり休んで、明日は心のための休息を取ることに決めた。 ゆったりとしたふたりの時間を過ごしているうちに、少しずつ元気が集まってくるような気がする。 このまま前向きになれればと、思わずにはいられなかった。 「香穂子、今夜はゆっくりずっと一緒にいよう」 「…はい…」 吉羅は香穂子を軽々と抱き上げると、バスルームへと連れていく。 「あ、あの、ひとりで大丈夫ですから…!」 「先ほど言ったはずだよ? 私たちは片時も離れないほうが良いんだよ。だから、一緒にバスルームでゆっくりしよう」 いきなりふたりでお風呂に入るなんて、そんなことは信じられない。 恥ずかしくてしょうがなかった。 「今夜はふたりでお風呂に入ってしまえば、手っ取り早いし、何よりも君を守ることが出来るからね…」 「…暁彦さん…」 吉羅に逆らうことなんて出来ないし、したくもない。 香穂子ははにかみながら頷いた。 ふたりでゆったりと湯船に入る。 吉羅に背中を包まれるように抱き締められるのが、恥ずかしいのに嬉しくてしょうがなかった。 「…今日はよく我慢したね…。君は…。私も早く君をこうして抱き締めて、慰めたかったよ」 「有り難うございます…。だけど、あの場所は公的な場所だから、上手く甘えることが出来なかったんです」 「君に降り懸かる悪夢を総て追い払うように全力を尽くそう。君はただ真直ぐに前を向いていてくれ」 「はい。前を向いて頑張りますね。こうして慰めて下さったから、リセットして、前を向いて頑張ることが出来ますから」 「私もそのために手を貸すよ。ふたりで頑張って行こう…」 「はい。頑張りますね」 香穂子が明るく言うと、吉羅は更に抱き締めてくれた。 大丈夫、頑張れる。 吉羅が見守ってくれるから。 どのような嵐も、吉羅がいれば乗り越えていけると、香穂子は強く思った。 ふたりで抱き合っている間は、苦しいことを忘れられる。 香穂子がいるからこそ、頑張ることが出来るのだ。 吉羅は腕の中で無防備に眠る香穂子を眺めながら、甘い気持ちになる。 香穂子の耐え忍ぶ姿を見て、ところ構わず抱き締めなくなった。 あんなにも一生懸命頑張る香穂子を抱き締めて、慰めたかった。 吉羅は香穂子の髪を柔らかく撫で付けながら、その額に口づける。 「…香穂子…。私は何があっても君を守る…。だから安心して頑張ってくれ…」 香穂子という、こころから守りたい相手が見つかってから、吉羅は精神的に強くなったと思う。 香穂子を守りたい。 本当にいつか心からの笑顔を香穂子が得ることが出来るまで、吉羅は戦い続けることを誓う。 誰にも香穂子を傷付けさせない。 どんな悪意からも香穂子を守ってみせる。 「…香穂子…。君を守ってみせるから…。必ず…」 吉羅は愛を込めて呟くと、目を閉じる。 愛する者を守るための休息を得るために。 |