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その瞬間、吉羅は香穂子から離れると、影に向かって長い脚を振り上げた。 余りにも素早い動きで、香穂子は息が出来なくなる。 「うわっ…!」 次の瞬間、男の声がしたかと思うと、影がどさりと倒れるのが見えた。 「日野さん、吉羅さん大丈夫ですか!?」 刑事たちが駆け寄ってくるのが見える。 香穂子はホッとしながらも、恐ろしさに震えていた。 直ぐに刑事が男を取り押さえ、手錠をかける。 刑事はホッとしたように吉羅を見上げた。 「有り難うございます。早速、署に連行致します」 「宜しくお願いします」 吉羅は丁寧な声で言うと、刑事に軽く頭を下げた。 「明日、事情を訊きたいのと、取り調べの経過をお伝え致しますから、起こし頂けますか?」 「はい、分りました」 吉羅の声を聞きながら、香穂子は小さくなる。 不安と恐ろしさでいっぱいになってしまった。 吉羅を見上げると、肩をそっと抱き寄せてくれる。その力強さが嬉しかった。 吉羅と、襲いかかってきた暴漢が連行されるのを見送った後、香穂子は不安の余りに溜め息を吐く。 「…大丈夫だ…。心配ないから」 「…はい…。有り難うございます」 吉羅は香穂子を守るようにしっかりと抱き寄せると、暫くはじっとしてくれていた。 「有り難うございます」 「もううちに行ってゆっくりと休んだほうが良いだろう…。余りに気に病まないほうが良い」 「分りました…」 香穂子は、吉羅をこのような危険な目に遭わせてしまったのが辛い。 涙が滲んでしまいそうになりながら、香穂子はただじっとしていた。 「行こうか?」 「はい…」 吉羅に支えられて、香穂子は何とか歩き出す。 こうして吉羅と一緒にいるからこそ何とかなっているのではないかと思う。 ミッドタウンのレジデンス部分に入り、セキュリティを潜って吉羅の家に向かった。 「…吉羅理事長…ごめんなさい…。お怪我がなくて何よりです…」 「…そんなことは心配しなくて構わないから。日野君、君が今大切なことは、しっかりと自分を持つことだよ。それだけだ」 「…そうですね…。しっかりとした自分でいられるように頑張りますね…」 「ああ」 吉羅の家に足を踏み入れた時、香穂子はまるで要塞に入ったと感じるほどにホッとしていた。 吉羅に守られているのが嬉しい。 「…風呂に入って気持ちを切り換えなさい。明日もあるのだからね」 「はい…」 「明日は警察に行かなければならないから、かなりの心労がかかるだろう。だからリセットして眠ってしまいなさい」 「はい…」 全く動くことが出来ない香穂子の為に、吉羅は手早く風呂の準備をしてくれた。 本当にこころから守られているのを感じる。 香穂子は吉羅に感謝をしながら、バスルームへと向かった。 こころを穏やかにする効果があるハーブのバスソルトが入っていて、香穂子は有り難いと思った。 高ぶった神経が優しく緩和されていくのが分る。 落ち着いて来ると、徐々に考えがまとまってきた。 吉羅を危険には曝したくはない。 香穂子はこれ以上、吉羅に迷惑を掛けたくはないと感じていた。 好きなひとだから。 大好きでたまらないひとだから。 これ以上は迷惑を掛けることは出来ない。 ましてや危険に曝す訳にはいかない。 香穂子は苦々しい気分になりながら、決断する。 吉羅を守らなければならない。 吉羅が幸せで安全であることが、香穂子にとっては最も大切なことだった。 リサイタルは中止にして貰おう。 これ以上は吉羅に迷惑を掛けられないのだから。 リサイタルを中止してしまえば、恐らくはこのような危険なことも起こらないだろうから。 香穂子はバスルームから出ると、吉羅に決意を話すために、リビングへと向かう。 吉羅はリビングのオーディオで、香穂子のCDを聴いていた。 その静かな雰囲気に、香穂子はドキリとする。 「…理事長…」 「ハーブティーでも淹れよう。今の君には必要だろうからね」 「有り難うございます」 リビングのフローリングに座るように促されると、香穂子は小さな子どものようにペタンと腰を下ろした。 直ぐにハーブティーが入り、吉羅が持ってきてくれた。 「…有り難うございます」 カモミールの香りがとても優しくてホッとする。 柔らかな香りに、香穂子はこころが和むのを感じた。 「…吉羅理事長…、私…、やっぱり…、リサイタルを中止にしようと思っているんです…」 香穂子は苦渋の決断に息苦しさを感じながら、吉羅を見上げた。 すると吉羅はかなり厳しい表情をしている。 「…リサイタルの為に、君は今まで頑張って来たのだろう? 君はリサイタルを成功させるために、それこそ血が滲むような努力を重ねて来たのではないかね? なのに諦めてしまうのか?」 吉羅の声は、今まで聴いた中では、最も刺々しいものだった。冷たくて鋭い口調に、香穂子は胸が痛んだ。 「…頑張りたいとは思っていました…。だけど…、流石にこの状況なら…、諦めなくてはと…思わずにはいられなかったんです…」 香穂子は声を震わせながら言うと、なるべく吉羅とは顔を合わせないようにする。 「…私…これ以上…、吉羅理事長にご迷惑を掛けたくはないんです…! これ以上、吉羅理事長を危険に曝したくはないんです…! 吉羅理事長に何かあったら…私…」 最後は声が震えて、香穂子はどうして良いかが分からなくなっていた。 こんなにも胸が痛いことなんて、他にないのではないかと思う。 「…私のことは大丈夫だから、気にするな。日野君…、大丈夫だから、安心しなさい」 吉羅は何処か優しさと甘さが含んだ声で囁くと、いきなり抱き寄せてきた。 「…あ…!」 ギュッと力強く抱き締められて、香穂子は息が出来なくなるのを感じる。 これほどまでに力強く安心出来る抱擁は他になかった。 抱き締められるだけで、胸がいっぱいになる。 「…私のことは心配しなくて構わない…。君は…リサイタルが成功することだけを考えなさい」 「…吉羅理事長…」 吉羅に背中を撫でられて、まるで子供のようにあやされる。 吉羅は香穂子を優しく柔らかく慰めてくれる。 それがとても嬉しくて、香穂子は泣きそうになった。 「君のことは責任を持って私が守る。だから君は何も気にしなくても良いんだ」 「…理事長…」 香穂子は、大人の男性に、初めて甘えてみたくなった。 吉羅のように大人の男性にこうして守られるというのは、なんて幸せなことなのだろうかと思った。 「…大丈夫だからー気にしなくて良いんだ…。君のリサイタルが成功すれば、それで構わないんだからね」 「…理事長…」 吉羅の優しさに甘えるように、香穂子は涙を零した。 今まで我慢をしてきた感情が、涙によって洗い流されていく。 「…日野君…。君は我慢をすることはないんだ…」 「…有り難うございます…、理事長…」 香穂子は、吉羅の男らしい広くて逞しい胸に総てを預けると、初めてしっかりと抱き付いた。 暫く、吉羅と抱き合ってじっとする。 大好きなひとにすがりついて、抱き締められて…。 なんて幸せなのだろうかと、香穂子は思った。 「…日野君…」 甘くくぐもった声で名前を呼ばれて、香穂子は顔を上げる。 すると滲んだ涙を吉羅が親指で拭ってくれた。 「…有り難う…ござい…」 そこまで言ったところで吉羅の唇が近付いてくる。 重なった瞬間甘くて泣きそうになった。 |