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こんなに蕩けるようなキスは知らない。 幸せでしょうがないキス。 香穂子は吉羅のキスに溺れるように、何度も何度も交わし合う。 本当に息が出来ないのではないかと思うほどに、激しいキスに溺れていった。 お互いに息を弾ませながら、ふたりは唇を離して見つめあう。 官能的な熱に潤んだ瞳で吉羅を見つめると、更に強く抱き締められた。 今、安堵というよりは、それ以上の感情を吉羅に抱いている。 このままもっと熱い嵐に身を投じたい。それは許される感情なのだろうか。 ひとときの情熱なのだろうか。 狙われているという恐怖から来るものなのだろうか。 答えは否だ。 吉羅への恋情がそうさせているのだ。 決して切迫した恐怖じゃない。 吉羅を熱いまなざしで見つめると、フッと瞳が陰るのが解った。 吉羅は顔を逸らすと、香穂子から離れる。 「…すまない…」 静かに吉羅は謝ると、香穂子に背中を向けた。その背中に拒絶されている気分になり、香穂子は泣きそうになる。 まるで恋情を拒絶されたような気分だ。香穂子にはそれが辛い。 「早くお風呂に入って休みなさい…。今のことはなかったことにするんだ…」 「吉羅理事長…」 香穂子はその場にいられなくて、逃げるようにバスルームに向かった。 不安になったから、恐怖から逃れるためだけに、吉羅を求めたと思われたのだろうか。そんなことは決してないと言うのに。 吉羅が好きだからこそ、求めてしまったに過ぎないというのに。 香穂子は胸が千切れてしまうかと思うほどの痛みを感じながら、呼吸をした。 バスルームでシャワーを浴びながら泣いてしまえば、吉羅には聞こえない。 こんなことで泣いてしまうのは、恐らくは気分が安定していないからだろう。 死への恐怖が気持ちを不安定にさせているのかもしれない。 香穂子は、こんなにも切ない気持ちになるのは初めてだと思いながら、シャワーでマイナスの感情を洗い流そうとした。 吉羅は溜め息を吐きながら、リビングにひとり残る。 香穂子を守りたい、愛しいと思う感情に歯止めをかけることが出来なかった。 余りにも香穂子が頼りなくて心許無かったから、守りたくて愛したくて抱き締めていた。 縋るように吉羅を見つめた香穂子の瞳がなんと美しかったことか。本当に闇に輝く星よりも美しいと思った。 あの美しさを見せつけられてしまい、吉羅はもうこれ以上感情を抑制することが出来なかった。 香穂子とのキスは本当に素晴らしくて、何度も何度も唇を味わいたくなった。 柔らかいのに弾力がある香穂子の唇は、本当に夢見るような素晴らしさだった。 このまま、唇だけではなく、しなやかで柔らかな美しさを秘めたその躰を愛したくなった。 自分の情熱を刻み付けたくなった。 それは決して極限の下にある場合に起こる保護欲ではなく、本当に香穂子が愛しくて発生した感情だった。 だが香穂子はどうだろうか。 そこに恋情があるのかと言われたら、違うのではないかと吉羅は感じた。 香穂子は、深い恐怖の余りに吉羅に保護して貰いたいと思っただけではないかと、思ってしまった。 そんな状態で香穂子を抱くわけにはいかないと思った。 吉羅は何とか最後の理性で、香穂子を離したのだ。 もしあのままズルズルいって香穂子を抱いてしまうようなことがあれば、後で傷付くのは香穂子のほうだと思った。 だからこそ出来なかった。 吉羅は溜め息を吐くと、まだ熱い自分の躰を何とか制する。 香穂子がこころから同意しない限りは、今夜のようなことはあってはならないと思う。 それが香穂子の為でも自分のためでも思えた。 香穂子はベッドに入ったものの、上手く寝付くことが出来なかった。 何度も寝返りをうっては溜め息を吐いてしまう。 吉羅に抱き締められなければ眠れないとすら思った。 吉羅の抱擁は何よりも香穂子の睡眠安定剤になるような気がする。 吉羅に抱き締められなかったことが、これほど重くのし掛かるとは思わなかった。 何度も溜め息を吐き、何度も切なくて泣きそうになる。 とうとうベッドにいられなくなり、香穂子はキッチンへと向かうことにした。 温かなミルクを飲めば、どうにかなるかもしれない。そんなことを考えながら、香穂子はキッチンへと入った。 眠れない。 どうやっても眠ることが出来ない。 いつもはすんなりと眠ることが出来るのに、今夜は上手くいかなかった。 ナイトキャップなどはいつもは嗜まないというのに、今夜は飲まずにはいられなくなる。 吉羅はアルコールを飲めば、この熱くほてった躰をどうにか出来るかもしれないと感じていた。 ベッドから出てキッチンへと向かった。 香穂子はミルクをマグカップに入れると、電子レンジでそれを温める。 これを飲めば、幾分か落ち着くことが出来るだろうか。 そんなことを考えながら、香穂子はミルクが出来上がるのを待った。 不意に物音が背後からしと思わず振り返る。 「…吉羅理事長…」 今夜の不眠の原因が立っていた。 「日野君…。君も眠れないのかね?」 吉羅の言葉に香穂子は苦笑いを浮かべる。 「…そ、そんなことないです」 誤魔化すように言ったが、吉羅に薄く笑われる。 「吉羅さんこそ、どうしてこんな時間にキッチンへ?」 「喉が渇いただけだ。少しばかりアルコールを飲もうと思ってね」 「そうですか」 香穂子は、吉羅のことだから、本当に喉が渇いているのだろうかと思う。 香穂子のように眠れないからだという理由ではなさそうだった。 「私は少しねむれなかったんです…。ミルクを飲めば、ゆっくりと眠りに落ちることが出来るんじゃないかと思ったんです…」 「…そうか…」 吉羅と話しているうちに電子レンジがゆっくりと止まる。 香穂子が電子レンジからミルクを取り出すと、吉羅が小さなラム酒を持ってきてくれた。 「これを一滴でも足らせばかなり効果的だ。アルコールは大丈夫かね?」 「少しだけなら大丈夫です…」 吉羅がいつもと同じ気遣いをしてくれるのを嬉しく思いながらも、心はズキズキと痛くなった。 「少しお願いします。ラム酒を…」 「解った。少しだけたらそう。お菓子に入れるのと同じようにね…」 「有り難うございます」 香穂子が笑顔で頷くと、吉羅は薄く笑った。 吉羅はアルコールで、香穂子はほんのりとアルコールが入ったミルクで、眠りを誘おうとする。 不眠の原因はお互いだというのに。 ふたりは向かい合って座ると、静かに飲み物を飲んだ。 吉羅がいつも通りの態度なのが、少しだけ切ない。 もう少し動揺してくれても良いのに。そこは恋には百戦錬磨な吉羅だからだろうか。 悔しい。 吉羅に恐怖心からキスをしたのではないということを知らせたい。 それには…。 香穂子は吉羅の様子を伺いながら、じっと見つめていた。 目の前にいる香穂子は、やはり天使のようだった。清らかで温かい。本当に愛しい存在だ。 このまま香穂子を抱き締めてしまえれば、これほど良いことはないのにと、吉羅は思わずにはいられなかった。 互いに牽制するように見つめている。 穏やかなふりをして情熱的な炎が舞っている。 不意に吉羅が顔を上げた時だった。 「……!」 香穂子が唇を吉羅の唇に重ねて来た。 余りにもの衝撃に、吉羅は目を丸くする。 ただ茫然となるだけだ。 「…吉羅さん、私は怖いからキスをしたんじゃありません。あなたにキスをしたかっただけ」 香穂子は思い詰めるようなまなざしを吉羅に向けると、そのまま部屋に行ってしまう。 参った…。 それだけしかなかった。 |