*秘密*

14


 吉羅の唇は甘くて、そしてどこかうっとりとするほどに密度が濃い。
 暁慈を起こさないように、吉羅は慎重に唇を重ねてきた。
 こんなにも甘いキスは他にはないだろうと思えるほどに、ロマンティックなキスだ。
 唇を離すと、吉羅は香穂子を見つめる。
「…有り難う…」
「え…?」
「暁慈を中絶しないでくれて…。こんなにも素晴らしい子供はいないよ」
 吉羅は掠れた声で呟くと、香穂子の手をギュッと握り締めてきた。
「…そんなことは、考えられなかったから…。周りも、私の意思を尊重してくれましたから…。この子は大切な子供だったから、産むことしか考えませんでした」
 本当は吉羅の子供だから産んだのだ。
 せめて愛するひとの子供だけでも、そばに置きたかった。
 それだけだった。
 他に望みなんて香穂子にはあるはずもなかった。
「君には礼を言っても、言い尽くせないよ」
 吉羅は香穂子を抱き寄せると、再び唇を重ねてくる。
 もう抵抗が出来ないほどに、深く深く吉羅を愛してしまっていた。
 息の総てを奪われてしまうほどに激しいキスをした後で、吉羅は、香穂子をゆっくりと抱き締めた。
「…君が欲しいんだ…」
 くぐもった声で囁かれると、このまま流されたくなってしまう。
 だが、また同じ過ちをしたくはないと、理性が香穂子に警戒音を鳴らした。
「…香穂子…」
「…ざ、雑誌とかを読んだら、あなたはかなりのプレイボーイだからって…。毎晩のように…女性を入れ替えるって…」
 香穂子は理性が命じる通りに、警戒シグナルを送る。
「マスコミの言うことはあてにならないね…。私のこころを解ってはいないから…。私が特定の女性を持たずに、常に取り替えていたのは…、君の代わりを探していたからだ…。そして横にいる女達は、お粗末な、君の代わりに過ぎなかったんだよ…」
 吉羅は掠れた声で囁きながら香穂子を強く抱き締める。
 こんなにも情熱的な抱擁は、他に知らない。
「…香穂子、私は君しかいらないんだよ…。君しか…」
 吉羅は香穂子を抱き締めたまま、官能的に唇を奪ってくる。
 その欲望を刺激する甘さに、香穂子は溺れてしまいそうになった。
 子供が眠っているのに、それを忘れてしまいそうになるほどに、欲望と情熱が溢れたキスを交わす。
 吉羅は不意に香穂子を抱き上げると、ソファベッドがあるリビングスペースへと向かう。
「…暁慈が起きたら…」
「あんなに遊んだんだから、なかなか目は覚まさないよ…」
「だけど…」
 吉羅に反論しようとしたところで、唇を深く塞がれてしまった。
 このまま流されてしまう。
 かつて吉羅の腕のなかで恍惚を感じていた頃と同じように、溺れていく。
「…吉羅さん…」
 名前を呼べば、パジャマが脱がされていく。
「…3年間…、私はずっとこうして君を抱きたかったんだよ…」
「…吉…羅さん…」
 吉羅が掛ける魔法に、香穂子は完全にかかったらしい。
 久し振りに見る吉羅の裸身は、記憶のなか以上に綺麗だった。無駄なく筋肉がついて、こちらがうっとりとしてしまいそうになる。
 惚れ惚れとする吉羅の躰に組み敷かれて、香穂子が胸が詰まるほどに幸せな気分になった。
「…香穂子…、以前のように呼んではくれないか?」
「…暁彦…さん」
「よく出来ました」
 吉羅は、香穂子の躰を慈しむように扇情的に愛撫を繰り返す。
 長い間、頑丈にかけられていた香穂子のこころの鍵を吉羅はこじあけて、かつての快楽や情熱を思い知らせてきた。
 恍惚を何度も呼吸し、もうこれ以上は堪えきられないところまで、舌や指先で快楽を与えてくれた。
 いつの間にかふたりで獣のように抱き合い、最も高みへと登り詰めていく。
 長い永い放浪の旅の後で手に入れた安らぎのようだと、香穂子は感じていた。

 ふたりでひとつになった瞬間、今までで一番の快楽を感じる。
 こんなにも素晴らしい快楽があることを忘れていた。
 吉羅は香穂子の躰を知り尽くしているかのように、何度も高みへと押し上げてくれた。
 愛の行為がこんなにも素晴らしかったなんて、忘れていた。
 吉羅の熱を躰の内側で感じながら、香穂子はもう二度と忘れることは出来ないだろうと悟る。
 こんなにも愛しい熱は他になかった。
 吉羅は香穂子の内側に深く浸透していく。
 もう二度と忘れられない熱と重みに、幸せの涙を流した。

 総てが終わった後で、吉羅は香穂子の額に愛しげにキスをくれた。
「…やはり君は素晴らしいね…。記憶のなか以上に素晴らしかったよ…」
 吉羅は香穂子を抱き締めたままで、暫くじっとしていてくれた。
 躰で愛し合ったことで、香穂子はどうしようもないほどに吉羅を愛していることを、認めざるをえなかった。
 誰よりも深く愛している自信すらある。
 吉羅への愛情の熱さで、のぼせてしまいそうになった。
 暫く呼吸が落ち着くまでじっとしていた後で、吉羅が衣類を整えてベッドへと抱き上げて連れていってくれる。
 幸せ過ぎておかしくなってしまいそうだ。
 暁慈はふたりがベッドにやってきたことには気付いてはいないようで、ぐっすりと眠っていた。
 川の字になって、広い広いベッドに横たわる。
「この子は、夜泣きはしないのか?」
「しませんよ。そういうところも助かりました。子守歌代わりにヴァイオリンを奏でてあげると、とても喜ぶんですよ」
 吉羅は頷くと、子供の頬を撫でた。
「香穂子、三人で一緒に暮らそう。当面は今、私が暮らしているところで住むことにはなるが、いずれ暁慈がのびのびと暮らせるところに引っ越そうと思っている。…構わないね?」
 吉羅に指先を握られて、イエスと言うしか出来ない。
 もう仮面は取れたのだ。
 これ以上意地を張る気もない。香穂子は静かに頷いた。
 香穂子は初めて自分に素直になりながら微笑む。
 その笑顔を吉羅は受け止めるようにフッと微笑んだ。
「…有り難う…香穂子」

 翌朝、ふたりを連れて行きたい場所があると言われ、香穂子は暁慈を連れていく。
「有名なところなんだよ」
 吉羅が連れていってくれたところは、重厚な雰囲気がある楽器店だった。
 そこの主人は、香穂子の顔を見るなり直ぐに目を見開く。
「日野香穂子さんじゃないか! こんなところで逢えるとはとても嬉しい。暁彦君から、いつも有望なヴァイオリニストがいるから、いつか紹介すると、聞かされていたんだよ」
 白い髭を蓄えたでっぷりとした容貌は、まるで絵本に出て来る優しいおじいさんそのもので、香穂子は思わず目を細めてしまう。
 ぽっちゃりとした手を差し延べられて、香穂子もしっかりと拍手した。
「香穂子、この方は有名なヴァイオリン職人なんだよ。いつか君をここに連れてこようと思っていたんだよ…」
 吉羅は微笑むと、香穂子を見つめる。
「君が一番弾きやすいヴァイオリンを作って貰いたまえ。私も君の優しい音色を聴きたいから」
「有り難う…」
 吉羅の優しさに香穂子は泣きそうになった。
 ここの工房はかなり有名らしく、著名なヴァイオリニストの多くが、ヴァイオリンを造って貰っている。
「ヴァイオリン教室までしているんですね。講師募集…」
「良いヴァイオリニストがいたら紹介して欲しいねえ。宜しく頼むよ」
「はい、心当りをあたります」
 香穂子が笑顔で答えると、店主は名刺を差し出してくれ、それを受け取った。
「さあ、あなたの要望を聞きましょうか」
「ママ、シャンタさん?」
 暁慈がこっそりと言うと、店主はにっこりと笑う。
「そうだよ僕。しかし暁彦くんにそっくりだね。今日はパパとママと一緒で良かったね」
 何気ない店主の言葉に、暁慈は一瞬小首を傾げる。
 だが直ぐに笑顔を向けると、「うん!」と元気よく返事をしていた。



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