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香穂子は複雑な気分になった。 確かに吉羅は暁慈の父親ではあるが、父親というものがどのような存在であるかを、香穂子はきちんと教えてはいない。 ちらりと吉羅の顔を見ると、嬉しそうに微笑んでいるのが分かった。 「さてと、ご要望を伺いましょうか」 「はい、お願いします」 香穂子は様々なヴァイオリンを手に取りながら、理想的な音など自分の拘りを伝えた。 ヴァイオリン工房から出た後、暁慈が好きそうな果樹園に立ち寄る。 そこで暁慈は、本当にいつになく燥いでいた。 暁慈はリンゴをもいでは歓声をあげて、両親に見せびらかしていた。 その姿を吉羅と並んで見守るのが、何よりも幸せだ。 三人で過ごす何気ない日常がこんなにも大切で楽しいとは思わなかった。 「またこうやってあしょびたいよ」 「ああ。また来ようか、暁慈。君が望むように、なるべく多く遊べるようになったからね。これからはまた一緒にいっぱい遊ぼう」 吉羅は息子を抱き上げると、誇らしげに微笑む。 「これからは家族三人はいつも一緒だからね」 「うん!」 吉羅に抱かれた暁慈を見ていると、本当に嬉しそうにしていた。 最高に素晴らしき家族だ。 これ以上に素敵な家族はない。 香穂子はこころからそう思っていた。 横浜への帰り、流石に暁慈は疲れてしまったのか、ぐっすりと眠っていた。 「有り難うございました。お陰でとても楽しかったです」 「私も本当に幸せな週末を過ごさせて貰ったよ。有り難う。香穂子、ご両親には、きちんと私からご挨拶に伺う。きっと良くは思って貰えないだろうけれどね。君を散々振り回した上に、……捨てたのだからね」 吉羅の声はどこか沈んで苦しそうに聞こえる。 確かにそれは事実ではある。 だがこうして誠実さをずっと一貫して見せてくれていたのだ。 それに暁慈への愛は本物だ。 これ以上に暁慈が幸せになれる父親がいないことは、香穂子が一番よく解っていた。 「私からも両親に言います。…それと…どうして私と連絡を取れなかった訳を教えてはくれませんか?」 吉羅の表情が一瞬揺らいだ。 何処か苦悩に満ちた表情だ。 「…時が来たら話そう。ちゃんと正直に。香穂子、また週末に逢えないか? 今度は私の家で…。既に暁慈のベッドも準備してあるんだ。今度は三人でゆっくりと過ごしたい」 吉羅は話を巧みにすり替えてくる。 その横顔を見ていると、相当苦しいことが明らかに解った。 吉羅は何を隠しているのだろうか。 それを考えるだけで、こころが再び重たくなるのを感じていた。 このまqま先に進んで良いのか、香穂子は不安で堪らなくなる。 「今週は金曜日の夕方から月曜日まで時間を空けておいてくれないか? 頼む」 「解りました」 香穂子は渋々ではあるが頷いた。 吉羅が必死になって消そうとしている事実が、気にならないわけではない。 だがそれ以上に、吉羅のそばにいたいという欲求が強い。 やはり一度寝てしまえば、後は崩れ落ちるように吉羅に溺れてしまう。 それが解っていたからこそ、今まで慎重だったのだ。 吉羅と愛し合う行為は本当に素晴らしくて、涙がこぼれてしまう程に嬉しかった。 だからこそ、どうしても甘くなってしまう。甘えてしまう。 「…週末、とても楽しみにしているよ。また、私の前で温かなヴァイオリンを奏でてくれたまえ」 「…はい…」 香穂子は掠れた声で返事をすると、小さく頷いただけだった。 週末までがこんなにも待遠しくてたまらないのは、吉羅と付き合っていた頃以来だった。 ようやく吉羅と過ごせる時間が訪れた時には、本当に嬉しくて思わず満面の笑みを浮かべてしまう。 「今日はデリバリーでも取って、うちでゆっくりとしようか。三人で楽しめるゲームも買ってあるからね」 「有り難うございます」 香穂子が笑顔で応えると、吉羅はそれ以上の笑顔をくれた。 吉羅の高級アパートに行くと、準備は整えられていた。 小さな個室には、暁慈のベッドが備えられており、手頃な大きさの子供用家具まで揃っている。 「暁慈はひとり部屋だよ。ゆっくりと眠ると良い」 「しゅごいね」 「ここなら、私も一緒に眠れるかと…」 香穂子がそこまで言ったところで、吉羅は背後から包み込むように柔らかく抱き締めてくる。 「…君の眠る場所は、私の腕のなかでなかったかね?」 吉羅の言葉に、香穂子は真っ赤になって俯いてしまう。 「…子供が見ています…」 「構わない。私はずっと君とこうしていたかったからね」 吉羅は香穂子の首筋に唇を押し当てながら、更に深く抱き締めてきた。 「だっこー」 香穂子ばかりを抱き締めていたからか、暁慈は明らかな不満の声を漏らした。 「そうか。暁慈もだっこして欲しいのかね?」 「あい」 「そうか」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子を離して暁慈を抱上げる。 「君は夜にたっぷりと抱き締めさせて貰おうかな」 「き、吉羅さん…」 香穂子が顔を真っ赤にすると、吉羅は意味深に微笑む。その笑みが官能的過ぎて、香穂子は真っ赤になってしまった。 もう離さない。 あの時は、手に入れながらも手に入れることが出来なかったのだから。 もうあのような形で絶対に手放さない。 吉羅はシャワーを浴び終わると、息子が眠る部屋へと向かう。息子に「おやすみ」を言うためだが、それよりも早く香穂子を腕の中に閉じこめたいという衝動の方が大きかった。 「暁慈は寝たのかな?」 「うとうとしながら、ご挨拶を待っていますよ」 香穂子の言葉に、吉羅は頷いてベッドへと近付いた。 「暁慈…」 暁慈は、吉羅の姿を見るなり、うっすらと笑顔を浮かべる。 「…おやしゅみ…ぱぱ…」 にっこりと笑った息子の純粋さに、吉羅は胸を突かれる。 甘い幸せな痛みに、吉羅は息子を強く抱きすくめたくなった。 「…おやすみ、暁慈…」 吉羅が息子に優しく語りかけると、暁慈は安心したように眠り始めた。 電気を消して部屋を出た途端、吉羅は香穂子を抱き上げる。 「これからは私が独占させて貰うよ…」 「吉羅さん…」 「そろそろ、“吉羅さん”は止めて貰いたいんだけれどね。君もすぐに“吉羅さん”になるのだからね」 「…解りました…」 いつまでも初々しい子供のようにはにかむ香穂子が愛しく、吉羅は抱き締めても抱き締めたりないほどに愛しかった。 香穂子をベッドに寝かせると、吉羅は強く抱き締める。 「パジャマはもう要らないんじゃないかね? あの頃のように…。君は…、私から去る前は、ずっとパジャマは着ていなかったからね…」 「あ、あの時は…、今は暁慈もいるから…」 吉羅は楽しみながら、香穂子のパジャマを脱がしていく。 滑らかな肌。 優しい温もり。 苦しいほどに素晴らしい快楽をくれる愛しい女性だ。 「…君を愛している…。ずっと愛していたよ…」 「暁彦さん…」 これ程溺れた女性を他に知らない。 香穂子の華奢で柔らかな躰を、吉羅は夢中になって愛し始めた。 今度こそ、香穂子が自分の子供を育んでいる姿が見たい。 吉羅は独占欲と欲望を、香穂子の躰に刻み付けていった。 楽しくて愛に満ちた週末は終わり、また新しい週が始まる。 朝食の席で、吉羅は慎重に唇を開いた。 「香穂子、君と暁慈を社会的に、きちんと私の恩恵を受けられるように、誰にも有無を言わせないために、すまないが…DNA鑑定を受けて欲しい…」 吉羅は苦しげに言うと、香穂子をすまなさそうに見る。 「…私が…ずっと君を離さなければ受けなくて良かったのだが…、暁慈が将来、うちの遺産のことで揉めないようにと、その時に嫌な思いをしないためだ…。香穂子、理解してくれるか?」 吉羅は香穂子を柔らかく抱き締めると、その額にくちづける。 吉羅の苦悩が伝わってくる。 香穂子は、暁慈のことも、吉羅のことも考えるために、頷くしかなかった。 「解りました…。受けます…」 「有り難う…」 吉羅の腕の中に包まれながらも、香穂子は不安で一杯だった。 |