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吉羅は、香穂子と暁慈をオフィスに連れて行き、小さな応接室に通された。 「直ぐに係員が来ると思う。鑑定は簡単だ。頬の内側の粘膜を採取するだけだからね」 吉羅は、香穂子を落ち着かせようと、ずっとそばにいてくれる。 ピリピリとした雰囲気を漂わせていたからだろう。 吉羅がDNA鑑定をするのは、ごく真っ当なことかもしれない。 暁慈の権利を護るには致し方がないことだ。 だが、香穂子のこころは深く沈み込んでしまう。 吉羅の子どもであることを、否定されているような気がするから。 「直ぐに終わる。これが終われば、君にはもう嫌な想いはさせない。約束をする」 「…解っています」 香穂子は膝に乗せた息子を抱き締めながら、係員が到着するのを待った。 ノックが部屋に響き渡り、吉羅の秘書の声が聞こえた。 「社長、見えられました」 「お通ししてくれ」 「お待たせしました」 研究員風の男性が入ってくると、鞄からビニール袋の中に入った縦長のスティックのようなものを取り出してきた。 「こちらを袋から出して頂いて、スティックの先端に長い紙がついています。それを頬の内側に三回撫でて頂いて、スティックごと、こちらの袋に入れて下さい。検査はそれだけです」 検査員の説明を虚ろな気分で聞いて頷いた後、香穂子も吉羅も言われた通りにする。 そして、暁慈には香穂子が行った。 「あきちゃん、直ぐに終わるからね…。お口を大きく開けてね。そう良い子ね」 香穂子が暁慈のスティックを格納し終わると、ホッと息を吐いた。 こんなことだけで親子だと解るなんて、何だか不思議だと思う。 直ぐに鑑定は終わり、白衣を着た検査員はその場を辞した。 「…有り難う、香穂子…。私は仕事に行かなければならないから、タクシーで帰ってくれるかね? タクシーチケットは、秘書の山崎さんに渡しておくように頼んでおいたから」 「解りました」 吉羅は頷くと、慌ただしいまま仕事へと向かった。 吉羅がいなくなると、喪失をしたような気分になる。 何だか気分が重たくて、香穂子は唇を噛み締める。 吉羅は確かに暁慈を自分の子供であると、きちんと認めてくれている。 香穂子にとっては、それは何よりも嬉しい。 だが、暁慈が法的にもきちんと周りを納得させるためには、やはりDNA鑑定が必要なのだ。 それがとてもやるせなかった。 香穂子は浅い呼吸を繰り返した後で、息子を抱き締める。 「ごめんね、あきちゃん…」 不意にノックが響き渡り、秘書が入ってきた。 「日野香穂子さん、タクシーチケットをお持ちしました」 「有り難うございます」 秘書は厳寒な雰囲気を持った中年女性で、何処かギスギスした雰囲気があった。 秘書はタクシーチケットを香穂子に手渡すと、暁慈を見つめ、頷く。暁慈を見ただけで、吉羅の子どもだと確認したのだろう。 「…あの時のお嬢さんね。吉羅社長に何度も電話を掛けてきた。あの時は…お子さんのことを伝えたかったのね。ですが、私はそれを知らずに、あなたの電話を社長から遮断しました。それは申し訳ないと思っています…」 秘書は深々と頭を下げて感情なく謝罪をした後、厳しいまなざしを香穂子に向けてきた。 「ですがあの時は、ああするしかなかったんですよ。社長の…昏睡状態だった婚約者がお亡くなりになり、とても哀しんでいらして、社長は何も出来ない状態になっていたんですから…。その上、会社存亡の危機でしたから、社長には他のことを考える余裕もなかったんですよ。父上が傾かせた会社を、その手腕で立て直したんですから…」 淡々と話す秘書の言葉に、香穂子は一瞬、こ心臓が止まるのではないかと思った。 頭のなかがガンガンする。 吉羅に昏睡状態の婚約者がいた? 吐き気がする。 こんな真実は、知りたくはなかった。 ならばあの時は、最初から捨てられる運命だったのかもしれない。 捨てられなかったとしても、吉羅はずっと愛人のままで側に置こうとしていたのだろう。 香穂子は頭がくらくらとしてしまい、貧血の余りに立てなくなる。 自分は本当に吉羅のことを何も知らなかったのだ。 婚約者がいたことも、何もかも。 ただ純粋に愛して、吉羅が気紛れでも香穂子にだけ向けてくれる温もりが嬉しかった。 ただそれだけを求めていたのに。それゆえに、周りが見えなくなっていたのだ。 香穂子は目の前が真っ暗になるのを感じながら、目を伏せた。 今後も愛人としてしか、側にいられないのだろうか。 「…日野さん、社長はああいう方ですから…、あなたとは住む世界が違うのです。これ以上深入りするのは良くないですよ。…あの方とあなたは住む世界が違うのです。あの方が結婚すべき相手は、あの方ではないのですよ。手切金が出たら、姿を消したほうがよろしいでしょう。あなたとお子さんがこれ以上傷付かないために。それに社長は近々婚約をします。あなたとは手を切らなければならないのです」 香穂子はもうどうして良いのかが解らない程の絶望を感じていた。 この気持ちをこの女性は、きっと理解することなんて出来ないだろう。 高みに登り詰めて有頂天になった瞬間に、背中から押されて谷底に突き落とされるなんて。 香穂子は振り絞れるだけの力を振りしぼって、秘書を見た。 「…吉羅さんに言っておいて下さい…。認知もいりません…、手切金も何も要らないと…。ただ、私の前から消えて…と」 香穂子は震えた声で呟くと、真っ青な顔をしたまま立ち上がる。本能で暁慈を護るように抱き締めて応接室から出た。 先ほどの秘書の話は、あながち嘘ではないのかもしれない。 吉羅は香穂子に連絡をしなかった理由を、ずっと言ってくれなかったのだから。 そして、かつて言われた言葉を思い出す。妻にするには、家柄も教養も相応しくない相手だと。 あの時には婚約者がいたのだ。 しかも昏睡状態の。 だからこそあのようなことを言ったのだ。 エレベーターに乗ると、吉羅の社のエリート風の男達が、世間話に花を咲かせていた。 「やっぱり社長は、銀行頭取の娘と結婚するのかな」 「だろうな。あのひとはとことん合理主義だからな。愛していない女と結婚するのも厭わないタイプだろうな。あれは」 「だろうな」 何気ない会話を耳にしながら、香穂子は唇を噛み締める。 吉羅はあくまで香穂子を囲い者にする気なのだろう。 そのために、遺産相続で問題が出ないようにと、暁慈とDNA鑑定をしたに過ぎないのだ。 吉羅には何も求めないことを、きちんと記さなければならないだろう。 だからもう、自分達には近付いて欲しくはないと、きちんと宣言しなければならない。 もう二度と信じてはいけない。 このタクシーチケットも、後で送り返そう。もう、吉羅からは何も受け取りたくはない。 香穂子は一階まで降りると、地下鉄の駅まで歩いて行こうとした。 「香穂!」 いきなり声を掛けられて、香穂子は振り返った。 そこには天羽がおり、心配そうに香穂子を見ている。 「香穂、顔色悪いよ? 何かあったの?」 「…大丈夫だよ」 親友を心配させたくなくて、香穂子はにっこりとわざと作り笑いをする。 「…だったら良いんだけれど。ちょっとさ、あまり良くない話を耳にして、あなたには話しておかなければならないって、思っていたところなんだよ」 天羽は唇を噛み締めると、香穂子を思い詰めたように見つめた。 嫌な予感がする。 背中に冷たいものが走り抜ける。 だが、訊かなければならないような予感がした。 「香穂、ここでは話せないから、そこのカフェに行かない?」 天羽の誘いに、香穂子は怪訝と不安を抱きながら頷いた。 天羽は言いにくそうに咳払いをすると、香穂子を真っ直ぐ見つめる。 「…あのね、香穂…その…、率直に言うね。私も偶然から知ったことなんだ。あなたのことを凄く調べている記者がいたから、どうしてかを訊いてみたんだ…で…」 天羽は呼吸をすると、改めて香穂子と暁慈を見る。 「…で?」 「…で、あなたが吉羅暁彦の愛人で、あきちゃんが隠し子だって…」 背中に冷たいものが走り抜ける。 とうとう隠していたことが白日にさらされ、香穂子はそのまま倒れそうになった。 |