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香穂子はこのまま消え去りたいと思う程のショックで、唇をわななかせる。 暁慈が吉羅の子供であることは、誰にも言っていなかったのに。 両親や親友にすらも。吉羅にはたまたま知られてしまったに過ぎない。 「明日のタブロイド誌に載るらしいんだ…。吉羅暁彦を追っていて、たまたまスクープを掴んだって。しかも、愛人の告白という形で、インタビューを載せたいって、あなたのことを追っているらしい…」 「…そんな…」 香穂子は唇を噛み締める。 自分が傷付くのは構わない。 だが、大切な暁慈だけは傷つけたくない。 香穂子は瞳から涙を零すと、血が滲むほどに唇を噛み締めた。 「…吉羅暁彦は、最近、帝都銀行の頭取の娘との婚約が取り沙汰されているでしょう? 別のタブロイド誌では…、吉羅暁彦の悲恋って…、三年前に昏睡状態のまま亡くなった婚約者のことを特集するらしいよ…」 天羽の口調は優しく本当に香穂子を気遣ってくれているものであったが、それでも泣きたくなるほどに苦しく凶器のような言葉だった。 「…香穂…」 香穂子は白くなるほどに拳を握り締めると、肩を震わせた。 「香穂…」 「…教えてくれて、有り難う…。本当に有り難う…」 香穂子は声を震わせながら言うと、涙を沢山貯めて笑顔で天羽を見つめた。 「香穂…」 「…知って良かったって思っている。だけどあきちゃんは、私だけの子供なんだ…。父親はいないの…よ」 香穂子は自分に言い聞かせるように言うと、声を震わせる。 「聞いて良かったよ、本当に。菜美、有り難うね。本当に…」 香穂子はお茶も口付けないままで、ただ笑う。 「ママ、おなかしゅいた」 「まんましようか、あきちゃん。ここだとハンバーグがあるから、それで良いよね」 「あい!」 香穂子は息子の笑顔に癒されながら、ふと笑みを浮かべる。 本当に元に戻っただけなのだ。 あのひとには元から何も求めないつもりだ。 それにこれ以上は迷惑をかけたくはない。 今度のことで迷惑をかけてしまったが、それだけが心残りだった。 「…香穂…本当に良かったの?」 「うん。最初から、あのひとには何も求めないつもりだったんだ。あきちゃんがいれば、私は何も要らないんだ、本当に…」 「香穂…」 「じゃあ、ハンバーグランチセットをひとつ頼まないとね」 「うれひー」 香穂子は息子だけをこれから愛していこうとこころに決めながら、そっとその柔らかな頭を撫で付けた。 息子にはハンバーグを食べさせたが、香穂子は殆ど食べられなかった。 もう横浜にはいられないし、もうヴァイオリニストとしても諦めなければならないだろう。 だが、どうしても諦めたくなかった暁慈が腕のなかにいる。 それだけが幸せだった。 食事が終わり、香穂子は天羽と駅近くで別れる。 「元気出して香穂…。マスコミ側にいる私がこんなことを言うのは説得力も何もないんだけれど…」 「大丈夫だよ、菜美…。私ね、横浜を出る準備をしようかと思っているんだ。落ち着いたら連絡をするよ」 「…香穂…」 天羽もまた泣きそうな顔で何度も頭を振った。 「…大丈夫だよ、そんな顔をしなくても良いから。大丈夫だから、ね」 「…香穂…」 不意に香穂子の視界に、吉羅の姿が入る。綺麗で品のある女性と一緒にいる。 仕事などではなかったのだ。 この女性との約束のために、香穂子の前を辞したのだ。 この女性はどこかで見たことがあるような気がした。 あのパーティで吉羅が紹介されていた女性だ。 香穂子が固まっていると、天羽は目線を同じ方向に向ける。 「…あれ…、帝都銀行の頭取の娘だよ…」 「そうなんだ…」 香穂子はやはりと思い、唇を噛み締める。 もう恋なんてしない。 吉羅暁彦には。 もう二度と恋はしない。 香穂子は強く思うと、天羽に微笑んだ。 決意を込めた微笑みだった。 「じゃあ行くね、菜美。色々と有り難う」 「うん、必ず連絡してね!」 「うん、連絡するよ。それじゃ」 天羽と反対方向を歩き出すと、香穂子は涙が零れてくるのを抑えることが出来なかった。 それを何とか誤魔化すように前を向いて、地下鉄の改札を通ろうとした時だった。 力強く腕を掴まれて、余りの痛みに香穂子は振り返る。 するとそこには、軽蔑するほどに冷たい瞳をした吉羅が立っていた。 「…話があるんだ、日野君」 刺々しい声に香穂子は悟る。吉羅もまた、記事のことを知ったのだ。 「記者と逢って、今度は何を話すつもりなんだ? 記事のことを話したのは君だな!?」 疑われている。 それだけ信用されていないということだ。 それだけ愛されていないということだ。 香穂子のこころは完全に壊れる。 粉々になって、もう再製不可能だ。 「…私は何も話してはいません…」 「嘘を吐くんじゃない!」 「本当ですっ!」 ふたりの凄い剣幕に、周りの人々がじろじろと見ている。 「人が見ている。場所を移そう」 香穂子は唇を噛み締めると、首を横に振る。 「日野君!」 香穂子は目を見開くと、過去を振り切るように真っ直ぐ吉羅を見つめた。 「…君はいつも嘘ばかりだ…」 吉羅の搾り出された声に、総てが今砕け散ったと感じる。 香穂子はただ力なく微笑む。 「…吉羅さん、秘書の方から、三年前、あなたが私に連絡が出来なかった本当の理由を知りました…。婚約者が…いたんですね…。その方が亡くなった上に、会社も大変だったからと…」 「…そうだ…。今回の記事は…その復讐かね?」 「いいえ…。もうそんなことは思いません。最初から…、あなたには逢わなかったと…この数日のこちはなかったのだと思うようにします…。吉羅さん…。あなたと私は最初から関係なかったんです…。愛もなかった。あなたは私を信じてはくれなかったから…。私と暁慈はあなたの前から消えます。二度と、お目にかかることはないでしょう…」 香穂子は固いが透明感のある声で言うと、吉羅に頭を下げる。 吉羅の表情は更に冷たくなった。 「暁慈は私の子供だ。そんな勝手なことは許さない…!」 吉羅は静かな怒りを声に滲ませて、香穂子を睨み付ける。 だが、もうそんな視線は気にならない。びくびくもしない。 吉羅に愛されていないことが、分かったのだから。 「…私たちは始めから出会わなかったんです。だからこの子は、私だけの息子です…。記事については、先ほど記者をしている友人に聞きました。吉羅さん、私がこの子をあなたの子供だとは認めませんから、弁護士の方に頼んで、事実無根だと訴えて下さい。私は、あなたの子供でないと、証言しますから…」 ショックなのか、吉羅の表情は険しくなる。。 「…先ほどの方、吉羅さんとお似合いですね…。きっと、私と違って、美しさも知性も家柄も揃っているでしょうから。幸せになって下さい。失礼します」 青ざめる吉羅を残して、香穂子は息子を連れて改札を潜った。 もう二度と振り返らないと誓って。 吉羅は遠ざかる香穂子の華奢な背中をじっと見つめていた。 秘書から渡されたタブロイド誌の記事、そして香穂子は記者と一緒にいたのだ。 信じろというほうが難しい。 婚約者がいた件も、秘書から聞いたとは言っていたが、それは本当なのだろうか。 何処までも信じることは出来ない。 記者とあんなにも親しそうに話をしていたのだ。 吉羅はそこまで考えたところで、香穂子の表情を思い出しハッとする。 浅木ほど、香穂子は本当に傷付いた瞳をしていた。 あんなにも切ない顔を見たのは、香穂子がいなくなる前だけだ。 傷付くような言葉を言った時だ。 家柄も教養も自分には相応しくないと言ったときの。 心臓が痛くなる。 香穂子が嘘を吐いていないとしたら。 釧路自分が信じてやらなければ、誰が香穂子を信じるというのだろうか。 吉羅は思い直すと、香穂子を追いかけるために直ぐに改札を潜り、ホームに下りていく。 だが香穂子たちを乗せただろう地下鉄が走り去ったところだった。 |