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吉羅が会社へと戻ると、秘書がいつものように落ち着いた表情で待っていた。 「おかえりなさいませ、社長」 「話があります。あなたに」 何を話すのかを察したように秘書は表情を変える。 父親の代から会社のために献身的に働いてくれているひとだからこそ、信用している面がある。 だからこそ訊きたかった。 香穂子に何を吹き込み、そして何をしたかを。 「率直に訊きたい。日野香穂子に何を言い、どのような態度を取られたのか、私はそれを知り合いんだ」 「…解りました…」 秘書は静かに頷くと、吉羅を神妙な顔つきで見つめて来る。 「…彼女は、三年前に電話を何度も掛けてきたので覚えていたんですよ。まさかその電話が、妊娠を示すとは思いませんでしたが…。彼女は諦めたのか、ある時から電話をして来なくなりました。その後に、手紙を寄越しました。それを社長にお渡しをしましたが、読む気になられなかったようで、私が破棄をしたのはご存じでしょう…。それから、彼女からの連絡はぷっつりと切れました。それが三年前の話です」 秘書は唇を噛みしめると、まるで許しを請うように吉羅を見る。その視線の動きは、保身をしているように思えた。 「…そして、先ほどは、どうして社長が三年前に連絡することが出来なかったかを言いました。昏睡状態だった婚約者が亡くなり、同時に会社が厳しい状況にあったこと。その再建のために社長が奔走していたこと」 秘書は浅く呼吸をすると、真っ直ぐに吉羅を見つめる。 「…そして、帝都銀行の頭取の娘との結婚話がすすんでいることを…」 いつも表情に表さないが、吉羅は悲痛な色を滲ませる。 だから香穂子は、「さよなら」を言ったのだ。 ずっと愛し続けたからと言ったとしても、逆に信じては貰えないかもしれない。 香穂子も暁慈もかけがえのない存在だ。 これ以上の存在はない。 それを解っていたくせに、どうして早く真実を話さなかったのだろうか。 香穂子は恐らくもう自分から吉羅の前には現れないだろう。 それをひしひしと感じ、吉羅は拳を握り締める。 「…頭取の娘さんとの縁談はお断り致しました。…私は、香穂子と暁慈を誰よりも大切に思っていますから。もう、こんなことはされないで下さい」 吉羅はなるべく平静を装いながら言うと、秘書に背中を向ける。 「…今日は、自宅で仕事をします。失礼します」 吉羅は軽く一礼をすると、直ぐにブリーフケースを片手にオフィスに出る。 吉羅は駐車場に向かいながら、香穂子の携帯電話に電話を掛ける。 だがかえって来たのは、寒々しい言葉だった。 「お掛けになった電話番号は現在使われていません」 吉羅は溜め息を吐きながら、携帯電話を乱暴に切った。 「…携帯をかえたんだな…」 香穂子にどうすれば連絡が取れるのだろうか。 いつも暁慈といた公園の前に車を走らせたが、そこには香穂子はいなかった。 いつもこの公園が接点だった。 自宅は知ってはいるが、たとえ訪ねたとしても香穂子の家族は逢わせてはくれないだろう。電話をしたところで、通して貰えないに違いない。 吉羅は車の中で、香穂子が現れるのを祈りながらじっと待ちかまえた。 日が暮れるまでいたが、結局、香穂子は現れなかった。 吉羅は自宅に戻ると、ひょっとして香穂子がどこかで待っているのではないかと思い、駐車場周りを探す。 だが、香穂子は何処にもいなかった。 今日はなんて日なのだろうかと思う。 吉羅は疲れ切った躰を引きずりながら、自宅へと戻る。 自宅はいつものように空しい程にガランとしていて、静まり返っている。 暗い、寂しい空間。 昨日はあんなにも温かくて、安らぎに満ちた部屋だったのに、今は寒々しさだけを感じる。 「…香穂子…!」 吉羅は魂から声を搾り出すと、白くなるほどに拳を握り締める。 もう一度。 許されるならば、香穂子に逢って、きちんと説明をしたかった。 抱き締めたかった。 香穂子と暁慈のいない空間の侘しさに、吉羅は深い溜め息を吐いた。 香穂子はふらふらになりながら自宅に戻ると、溜め息を深く吐く。 終わったのだ総て。 香穂子は、これからどうして生きていこうと思い、溜め息を吐いた。 ふと、あのヴァイオリン工房の主人のことを思い出し、香穂子は慌てて名刺を取り出す。 当分はヴァイオリニストとしての活動は難しいかもしれないが、それでもヴァイオリンに関わる仕事をしていたかった。 香穂子は早速電話をすると、主人はのんびりとした口調で電話に出た。 「…ご主人、日野です」 「ああ、日野香穂子さん! ヴァイオリンはクリスマスイヴの前日には出来ますからね。暁彦君にも連絡をしようかと…」 「あ、あの。ヴァイオリンのことではなくて…、私、工房のヴァイオリン教室で、ヴァイオリンを教えたいんです! 雇って頂けないでしょうか!」 香穂子が早口で思い切り言うと、主人は驚いたように息を呑む。 だが人生の先輩である主人は、落ち着いた声で口を開いた。 「…解りました。お待ちしていますよ…。何があったかは、今は訊きませんよ…」 「有り難うございます」 「工房の上に小さな部屋がありますから、使って下さい」 「…有り難うございます…。明後日から伺っては駄目ですか…?」 店主は香穂子の気持ちを察してくれたのか、暫くして口を開いてくれた。 「構いませんよ。こちらは随分と寒いですからね。気をつけて下さい。家内とふたりでお待ちしていますよ」 穏やかな声に、香穂子はホッとして、丁寧に礼を述べた。 そこからは慌ただしく準備をしなければならなかった。 過去と訣別をするために、香穂子は携帯電話を解約した後で、安いプランを新規に申し込んだ。 その後は、暁慈のためにダウンコートを買いに出たり、細々とした準備をした。 家族を説得するのは大変だと思われたが、「香穂子が決めたことだから」と、渋々ではあるが認めてくれた。 バタバタとした日々を過ごしたが、流石に吉羅との記事が出た時には、何も言えなかった。 家族には申し訳がないと思ったが、温かく静かに何も言わず、ただ側にいてくれたのが、何よりも救いだ。 パパラッチが駆け付けてくることを不安に思いながら、香穂子は静かに一日を過ごした。 翌日の早朝には、香穂子はヴァイオリン工房がある山梨方面へと暁慈を連れて旅立った。 お金をかけないために、あくまで鈍行を使った長い旅だ。 暁慈には申し訳ないとは思ったが、意外にも電車を楽しんで乗ってくれたのが嬉しかった。 ヴァイオリン工房に到着する頃には、既に昼を過ぎていた。 工房を営む夫妻が、何も訊かずにただ「よく来たね」と言ってくれたのが、何よりもの慰めで、香穂子も暁慈も思わず笑みを零す。 ここからまた始めよう。 暁慈がいれば、何度でも始めることが出来るからだ。 香穂子は新しい生活に一歩踏み出していた。 吉羅は手を尽くしても香穂子の手掛かりを得るけとが出来ずに、かなり困り果てていた。 八方塞がりだ。 不意に内線が鳴り響き、吉羅は手を伸ばす。 「はい、吉羅です」 「日野香穂子さんの友人と名乗る若い女性記者が来ています。今日は記者としてではなく、友人として来たと…。…後、金澤さんと名乗る方もご一緒ですが…」 「通して下さい」 吉羅は電話を切ると、直ぐに応接セットへと向かう。 どうか彼等が香穂子と暁慈の行方を知っていますように。 それだけを祈っていた。 「失礼します」 若い女性の張りがある声に、吉羅は威厳を保つように胸を張ってドアを開ける。 「どうぞ。金澤さんもお久し振りです」 ふたりが部屋に入ると、ソファを勧める。 「…栄光出版社の天羽菜美です。吉羅さんに今日はどうしてもお話があって、金澤先生に着いてきて貰いました。記事のことで誤解があるといけませんから」 天羽は吉羅に対決するような視線を浮かべた。 |