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「…で、君が話したいことというのは…何かね?」 吉羅はわざと落ち着いたふりをして、天羽を見つめる。 「…あの記事ですが、決して香穂が…、日野さんがリークしたものではありません。あきちゃんの父親を、あの子は親にすら言ってはいなかったんですから。記者に話すわけはありません…。話すならば、とうの昔に、私に話していたとは思いませんか? 私があの子に一番近い存在の記者なんですから」 天羽はなるべく落ち着いた声で呟くが、僅かに躰は震えていた。 これは記者だからではない。友人の立場で来ているからだ。 天羽は更に続ける。 「…吉羅さん、そこまでして香穂子はあなたの名前を隠していました。今回の記事は、たまたまあなたを追っていた記者が、香穂と逢うのをたまたま見掛けて、それが重なったから記事にしたにすぎません。それだけは知っておいて頂きたかったんです。それと、あなたに婚約者がいた件はちらりと話しましたが、私は、あくまで香穂に知って貰いたかったから、言ったに過ぎないんです。だけど既に香穂は、そのことを知っている様子でしたが…」 吉羅は溜め息を吐く。 何時もなら目を配っていた記者に対する動きも、香穂子と暁慈に逢いたいという強い気持ちには、全く効果がなかったようだった。 これは完全に吉羅のミスだ。 それをどうして早く気付いてやれなかったのだろうか。 どうして信じてやれなかったのだろうか。 あんなに飽きそうな目をしていたのに。それが悔やまれる。 今はそれが悔やまれる。 「…こいつ、お前さんにきちんと話しておきたいからと、俺に頼んできたんだよ。…吉羅よ…、お前、俺にわざと日野を紹介させたんだな?」 今まで沈黙を守ってきた金澤が、静かに口を開く。 「その通りです。…私が香穂子を見つけられたのは、金澤さんがたまたま送ってくれた、コンサートの資料に彼女の写真と名前があったからです。あなたの教え子だと知って、わざと紹介して頂きました」 「やっぱりな…」 吉羅はふたりを真っ直ぐ見る。 香穂子たちの行方をひょっとして知っているかもしれないから。 「…日野君と連絡を取りたいんですが、連絡が取れない状態になっています。携帯も解約されている。…何か、ご存じですか?」 天羽も金澤も首を横に振る。 その表情を見ると、本当に知らないようだ。 「…そうですか…」 吉羅が失望の溜め息を吐いた時だった。 不意にプライベート携帯が鳴り響き、吉羅は「失礼」と言って電話を出た。 「はい、吉羅です」 「暁彦君、私だよ! ヴァイオリン工房の主人だ」 温かな声に吉羅はホッとする、恐らく頼んでおいた香穂子のヴァイオリンが出来たのだろう。 吉羅は寂しい気分になりながら、目を閉じる。 「出来上がるのがイヴの前日でね。それで知らせようかと思ってね」 「有り難うございます。こちらに送って頂くと幸いですが…」 「…いいのかね? ここには君が無くしたと思っているものがあるよ」 店主の言葉に吉羅はハッとする。 すると電話が一瞬遠くなり、子供が燥いでいる声が聞こえた。 誰の声かは、吉羅には直ぐに解る。 暁慈だ。 「…取りに来たら、ちゃんと誤解をとくんだよ。良いね?」 「…解りました。有り難うございます。確かに取りに伺います。ヴァイオリンと大切なものを一緒に…」 「分かったよ。待っているからね…、この週末…」 「有り難うございました」 吉羅は静かに携帯を切る。正直言ってかなりホッとした。 これ以上ないぐらいに。 香穂子が見つかったのだ。 これでようやく、向き合える。 もう逃げやしない。 二度と。 薪ストーブの前で温まりながら、暁慈とふたりで遊ぶ。 無邪気な子供の姿を見ていると、本当に癒される。 「香穂子ちゃん、ヴァイオリンが出来上がったよ。恐らく良い音色が響くと思うがね」 「有り難うございます」 店主は香穂子にヴァイオリンを手渡すと、穏やかに微笑む。 「そうだ。家内とショッピングモールに行こうかと思っているのだけれど、あきちゃんを少し借りても構わないかね? その間、留守番をお願いしたいのだけれど」 「はい、構いません。あきちゃん、おじちゃんたちとお出かけにいく?」 「うん! くーまに乗るっ!」 暁慈は嬉しそうに飛び跳ねた後、香穂子を見上げる。 「くーまのおじちゃん…パパは…?」 「車のおじちゃんはもう来られなくなったの。暁慈、ごめんね…」 暁慈は泣きそうな顔をするとしゅんと頭を垂れる。 その姿を見ていると、香穂子の胸はしゅくしゅくと痛んだ。 「じゃああきちゃん、おばあちゃんとおじいちゃんと買い物に行きましょうか?」 「いく!」 工房主人の妻が、暁慈の手をしっかりと結んでくれ、ふたりに連れられて、暁慈はご機嫌に裏口から出ていく。 香穂子はにっこりと微笑みながら、工房主人の夫婦に感謝していた。 三人が出て行った後、直ぐに工房のドアが開く。 「いらっしゃい………、吉羅さん……」 白い息を弾ませた吉羅が、目の前に現われる。 香穂子は心臓が止まってしまうのではないかと思うほどに驚き、息を呑む。 見開いた瞳を普通の状態にすら出来ない。 吉羅は香穂子を見つめると、愛しげに微笑んだ。 「…ヴァイオリンを取りに来た。君と暁慈を迎えにきた」 「…もう二度とお逢いしないと…」 硬く震える声で香穂子が言うと、吉羅は息が出来ないほどに強く抱きすくめてきた。 「…話を聞いてくれ…。頼む…! 総てを話すから、どうか聞いて欲しい…!」 吉羅の声が感きわまって掠れている。 この抱擁にも、声にも偽りがないと信じたい。 鼻孔をくすぐる吉羅の香りに、香穂子はその場で泣いてしまいそうになった。 懐かしくて愛しい香り。 こんなにもこころが騒ぐ香りは他にない。 こんなにもこころが安心する香りはない。 「…お願いだ…。君がどのような結論を出しても構わない。…だから、話だけは聞いて欲しい…」 吉羅の懇願するような声に、香穂子は頷くことしか出来ない。 「話を聞きます。寒いでしょう? 温かなコーヒーでも淹れます。お店はクローズしますね」 「店はクローズにしておいてくれたよ。ご夫妻がね」 「…ご主人は総て知って…」 「そうだ。連絡も下さった。大切な者を取りに来いと」 主人はふたりの仲を心配して橋渡しをしてくれたのだろう。 香穂子は頷くと、吉羅を奥にあるリビングに連れて行く。 薪がはぜる音が響き、どれほど静かであるかを感じた。 香穂子は、吉羅にブラックコーヒーを淹れ、自分の分はカフェオレにした。 「…どうぞ…」 「有り難う」 吉羅とふたりでリビングに腰を下ろすと、先ずは飲み物で躰を温めた。 一息吐いたところで、吉羅は大きな溜め息を吐く。 「三年前のことから話さなければならないね…。確かにあの時、私には昏睡状態の婚約者がいた…」 吉羅の声に、香穂子は躰を僅かに震わせる。 やはり本当だったのだ。香穂子が唇を噛むと、吉羅はフッと目を伏せた。 「愛はなかったけれどね。君と出会う三年前、私は父に決められた相手と婚約をした。愛なんて馬鹿げたものだと思っていたから、政略結婚も悪くはないと思っていたんだよ…」 吉羅はフッと自嘲気味に笑った。 「彼女と私は幼馴染みでね、姉弟みたいだった。彼女は最初は私のことを愛してくれたようだったが、やがて私に愛がないことに気付いた。別に好きなひとが出来、婚約から一年後、彼女は駆け落ちをはかった。しかも私の車でね…。そして事故は起きた。相手の男は亡くなり、彼女は昏睡状態になった。彼女の親は婚約解消を申し出てくれたが、私は、婚約を続けることにした。期限付きで…。本当に愛するひとが現れたら、解消することになった。だが傍から見れば、私たちはとても愛し合っていたように見えたのだろうね…。だから美談だと言われたんだよ。だが…私は君に出会ってしまった…」 吉羅は香穂子を見つめる。まるで抱き締めるように。 「私は初めてひとを愛することを知ったんだよ」 吉羅の言葉に、香穂子の瞳から涙がこぼれ落ちた。 |