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「…香穂子…泣かないでくれ…」 吉羅は、香穂子を慰めるように柔らかく抱き締めてくれる。 「…君に逢って、初めて、愛がどのようなものかを知った。有頂天だったよ…。愛がこんなに温かいということを、私は初めて知ったのだからね」 吉羅は、かつて愛し合っていた時と同じように、優しく香穂子の髪を撫で付けてくれる。 それがとても気持ちが良くて、泣きそうになった。 「…君と付き合い始めて直ぐに、私は婚約解消を申し出た。だが、彼女の容態が芳しくなくて、彼女の両親は後半年ほど待ってくれと言い、私はそれを受け入れた。私がちゃんと彼女を愛してあげれば、避けられた事故だったかもしれないからね…」 「…吉羅さん…」 「だから、あの朝、ついあんなことを言ってしまったんだよ。“相応しい家柄も教養もない”だなんて…、私もよく言えたものだと思っているよ…。君をとても傷つけてしまった…。本当に悔やんでも悔やみきれないよ…」 吉羅は声を震わせて呟くと、香穂子にすがるように抱き寄せる。 「…あの時話してくれていたら…」 「あの時は…、話せば君に嫌われると思っていたんだよ…。だから言えなかった…」 「吉羅さん…」 「だがそれが逆に仇になってしまったようだ」 吉羅は香穂子を抱き寄せながら、その香りを吸い上げていく。 「あの日…君に酷いことを言ってしまった日に、彼女の容態は急変し、亡くなってしまった。葬儀の手配などをしてようやく一息吐くと、今度は株の暴落で会社自体が目を離せなくなってきた。秘書が機転をきかせ過ぎて、君からの電話を総て遮断した。…だから、君が消えているだなんて思いもよらなかった。ようやく片付けて家に戻ってみれば、君はいなかった…」 吉羅はその風景を思い出したかのようで、苦痛に些かに表情を歪めた。 「君から届いた手紙も、別れについて書かれていると思ったこともあり、読まなかったんだよ。それからはかなり荒れた。もう仕事しかないという感じでね。同時に君の行方を探し始めた。留学したのかとも思ったが、今思えば、暁慈を産むために表から姿を消していたんだね。探して探し抜いて、ようやく君がヴァイオリンリサイタルに出演することを知った。それも偶然、高校の先輩である金澤さんが、教え子が出るからと、チケットを送ってくれたからだ。君の名前を見つけた時は…、本当に嬉しかったよ。今まで照明のないトンネルばかりにいたのに、明るい光が差し込んだような気がしたよ」 吉羅は香穂子を更に抱き締めた。 「…暁慈を産んでくれていたのが、とても嬉しかった…。三人で過ごした時間はとても濃密で幸せだった。…それなのに、私は君を信じずにああいうキツい言葉を投げ付けてしまった…。本当に…私はどうしようもない…」 吉羅は震える躰を香穂子に押しつける。 こんなにも弱さを見せる吉羅を見たのは初めてだ。 「…君の友人も来てくれて、記事のことをリークするなんて、君にはあり得ないと…。金澤さんも同じことを言ってくれたよ…。頭に血が上ってしまったとはいえ…、あんなことを言って済まなかった…。許して欲しい…。許してくれるとは思ってはいないが…」 吉羅の言葉と不安そうに揺れる瞳や躰が、香穂子のこころにゆったりと温かいものをもたらせてくれる。 今まで抱いていた苦しい気分も総て消え去っていった。 愛しているから。 どうしようもないほど愛しているから。 「…もう二度と君にこんな想いはさせない。香穂子…」 香穂子は吉羅の躰を愛しさを滲ませて抱き締めると、その背中を撫でた。 「君を生涯大切にする…。暁慈も生涯大切に想うよ…。愛している…。君以外にこんなにも愛しいと思ったひとはいないよ…」 「…暁彦さん…。私もあなたを愛しています…。もう、とうの昔に許せていたのかもしれない…。いいえ、私は、あなたを恨もうとしても、恨めなかった。その証拠が暁慈の名前です。”暁を慈しむ”なんて名前をあの子に付けたのは、名前だけでも、あなたを愛した記憶を残しておきたかったから…」 「…香穂子…!」 吉羅は嵐のような感情を香穂子に注ぎ込むかのように、唇を深く押し当ててくる。 熱くて甘い口づけに、香穂子の瞳からは涙が滲んだ。 愛しげにそれでいて激しい欲望を滲ませたキスは、香穂子の理性を奪い去る。 吉羅の愛情も熱も総てが欲しい。 香穂子は強く吉羅を求め続けた。 抱き締めて、キスを受けても まだまだ足りないぐらいに愛情が欲しい。 ふたりは息が続かなくなるまで、何度も何度もキスを交わした。 吉羅は香穂子の瞳に滲んだ嬉し涙を、そっと指先で拭ってくれる。 「…香穂子、一緒に横浜に帰ろう…。そして、結婚してくれないか? 暁慈と三人で温かい暮らしをしよう…」 「はい、喜んで」 香穂子は泣き笑いの表情を浮かべると、吉羅を抱き締めた。 「帰る準備をしよう。今夜は君を寝かせないからそのつもりで」 吉羅は艶やかな笑みを浮かべると、香穂子を愛撫するように見つめる。そのまなざしの艶やかさに、香穂子は真っ赤になって俯いた。 香穂子と吉羅は手をしっかりと繋ぐと、部屋へと向かう。 部屋に入ると、早速荷物を片付け始めた。 この部屋に来た頃は、とても侘しい気分だったが、今はとても華やいだ気分だ。 吉羅とようやく意志を通じさせることが出来たのだから。 誤解も総て解けて、爽やかな気分だ。 荷物が片付き、車に積み終わった後、香穂子と吉羅は息子を待ちながら、何度キスをする。 「本当は君を抱きたくてしょうがないが、いつ暁慈が帰って来るか、解らないからね」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子は抱き寄せた。 暫くふたりでじっとしていると、外から車が停まる音が聞こえた。 バタバタと小さな足音が聞こえて、ふたりはにっこりと笑って顔を見合わせた。 「たらいまーっ! あっ! くーまのおじちゃんっ!」 暁慈は一直線で吉羅に抱き付いてくる。吉羅は息子を抱き上げると、息子を見つめて目を細めた。 直ぐに工房夫妻がやってくる。 「…すみませんでした。家族で迷惑をお掛けしまして」 吉羅と香穂子は深々と頭を下げると、夫妻はホッとしたように微笑んでくれる。 「こちらこそ、あきちゃんと香穂子ちゃんがいてくれて楽しかったよ。さあ、ヴァイオリンだ。暁彦君、ふたりを大切にするんだよ」 「はい、有り難うございます」 吉羅は工房主からヴァイオリンを受け取り、深々と礼を言った。 「式を挙げる時は、是非とも呼んで下さい」 「はい」 夫妻の温かなこころに、香穂子は涙ぐみながら、頭を下げるのだった。 挨拶を終えた後で、固い絆を得た親子三人は、車に乗り込み、一路横浜へと向かう。 暁慈は嬉しそうに助手席に乗り込み、足をバタバタさせていた。 「今日は特別だよ、暁慈」 「嬉しいよ。くーまのおじちゃんのくーまに乗れて嬉しいよー」 子供がこころから喜ぶ姿を見ていると、本当に嬉しかった。 「あきちゃん、これからは、くーまのおじちゃんのことは、“お父さん”か“パパ”と呼ぶのよ。あなたの本当のお父さんだから」 「…あい」 まだ“父親”という意味が解らないが、大事なことを言われたと感じ、暁慈は神妙に頷いた。 吉羅をじっと見つめ、言い慣れない言葉を口にする。 「パーパ?」 暁慈は慎重だが、吉羅を呼んでみる。 吉羅の表情が、感きわまるように幸せが満ちたものになった。 「何かな? 暁慈」 「これからじゅっと一緒?」 「ああ、一緒だよ」 吉羅の言葉に、暁慈は本当に嬉しそうに笑った。 「うれちい」 暁慈の底抜けな笑顔を見るのは本当に久し振りだ。 やはり父親は必要なのだ。 香穂子はふたりの様子を見つめながら、胸がいっぱいになった。 |