*過去への扉*

11


 新月の日にこの時空にやってきた。
 まるで月の魔法に導かれているような気分だ。
 月が満ちる度に、いつまでこの時空にいられるのかをつい考えてしまう。
 じっと月ばかりを見つめていると、吉羅が声を掛けてきた。
「日野君、どうしたのかね?」
「月が満ちるのを見ていました」
「君はとてもロマンティストだね。まあ、ロマンティストでなければ、にはヴァイオリニスト向いていないけれどね。芸術はどのような種類のものであれ、ロマンスは欠かせないからね」
「そうですね」
 吉羅は、今夜もナイトキャップを作ってきてくれた。
 それはとても有り難いことだ。
 昨日とは違い、吉羅はコロンの香りをさせてはいない。
 さすがにそれはあからさまにホッとした。
 吉羅が纏う美しい女性の移り香はやはり胸が痛い。
 今夜は安心していられるような気がした。
「こうして吉羅さんのそばにいると幸せです。つい笑顔になってしまいます」
 香穂子が屈託なく言うと、吉羅はそっと片手で抱き寄せてくれた。
「私も君と一緒にいられることが、とても嬉しいよ。昨日は、仕事絡みの接待があったから、今夜はそれを埋め合わせるように一緒にいられるのは嬉しい限りだね」
 吉羅の言葉に、つい笑みを零してしまった。
 あのプアゾンの香りは接待された側の女性か何かなのだろう。
 香穂子自身は、今までプアゾンの香りを吉羅からは嗅いだことはなかった。
 むしろ自分が今使っているコロンの香りのほうがよく嗅いだ。
 悔しいが気に入ってしまった香りなのだ。
 このような香りをつけて似合う女性は、吉羅に釣り合いが取れていると思ったのだ。
 香穂子は、早くそのような女性になりたくて、吉羅に色々と教えて貰ったものだ。
 上質ながどのようなものなのかを、よく教えてくれた。
 それは今でも感謝をしていた。
 吉羅に抱き寄せられて甘いキスを交わす。こんなにも甘くてとろけるような瞬間は他にないて思う。
 何度か軽くキスをした後、香穂子は潤んだまなざしを向けた。
「…吉羅さん…、私…、あなたに逢いに来たことはお伝えしたと思います。あなたに逢いに来たのは…、運命を変えたかったからです…。今、過去に逆上れば運命が変わると思っていたんですね」
「…今も…変わると思っているかね…?」
「解りません。だけど、後悔しないためにこの時空に来ました。後悔したくはなかったんです。あなたにちゃんと伝えたかったから…」
「何を?」
 本当は、伝えたから運命が変わるとは限らないのは解っている。
 だが、どうしても運命を変えたかった。
 大好きなひとに「好きです」とただ一言、言いたかった。
 まだまだ力は強くない月の光が、ゆっくりと窓から差し込んでいる。
 その厳かな月の光が、香穂子を柔らかく導いてくれる。
 言うのなら今しかない。
 香穂子は背筋を伸ばすと、吉羅の瞳を見つめた。
「あなたのことを…」
 そこまで言ったところで、香穂子は緊張する余りに次の一言が出て来ないことに気付いた。
 吉羅暁彦に愛を伝えるには難しい。
 だが、ここで言わなければ、かなり後悔するだろうと思った。
「…吉羅さん…、私はあなたに“好きです”と言いたくて、この時空に来ました。あなたに告白をするために…」
 香穂子は真っ直ぐ見つめて吉羅に言う。
 緊張し過ぎて声が震えてしまう。
 だが、ここで言ったほうが後々の後悔は残らないと思った。
 短い人生ではあるが、初めて深く愛した男性だから、香穂子は言わなければならない言葉をきちんと伝えたかった。
 今緊張しているが、それぐらいは一瞬のことだ。後悔して生き続けるよりはずっと良いと思った。
 吉羅は黙っている。
 何を告白するのかとぐらいにしか思ってはいないのだろう。
 だが、伝えたかったのだからしょうがない。
 これでスッキリした。
 今は何とか堪えなければならない。
 泣きたくてしょうがない気持ちを、何とか抑えなければならない。
「…吉羅さん、明日、学院に行って、リリに戻れる方法を訊いてみます。ただあなたに伝えたかったんです。 私はきちんと伝えたことがなかったから。それだけです」
 香穂子はキッパリと言い切ると、深々と深呼吸をした。
「あ、グラス片付けますね」
 香穂子は誤魔化すように言うと、吉羅から目線を逸した。
 キッチンの前に立った時だった。
 吉羅が背後から包み込むように抱き締めてくる。
 その抱擁の強さに息苦しくなる。
「…有り難う…、日野君…」
 吉羅は低い声で言うと、香穂子を更にキツく抱き締めてくる。
 その抱擁の激しさに、思わず喘いでしまう。
 こんなにも甘くて激しい情熱的な抱擁は他には知らない。
 吉羅は、香穂子を腕の中に閉じ込める。
 そのまま強くキスをした。
 何度もキスを重ねて、頭がぼんやりとする。
 今は、学院の理事長と生徒という関係ではないから。
 ただの男と女だから。
 だからこそこうして忘れるようにキスを交わすことが出来るのだ。
 何度もキスをした後、お互いに見つめ合う。
 お互いのまなざしに情熱が宿る。
 香穂子はそれをぼんやりと見つめてしまう。
 なんて綺麗なのだろうか。
 吉羅の瞳は息を呑むぐらいに美しかった。
「…香穂子…、私も君を大事に思っていたよ。ずっと…。未来の私もずっと君を大事に思ってくれていることだろう。だが…、こうして君に告白して貰って、私は…」
 吉羅は苦しげに言うと、香穂子を真っ直ぐ見た。
「君が好きだよ…。本当に…。私は…君をとても愛しいと思っている…」
 吉羅の深みのある声で囁かれて、これ以上立っていられないのではないかと思うほどに、とろけるような感覚を味わった。
「吉羅理事長…」
 香穂子が感きわまった気持ちで名前を呼ぶ。
 吉羅はフッと笑みを浮かべると、香穂子の頬を撫でた。
「未来がこれで変わるかどうかは解りません。だけどあなたに本当の気持ちを伝えることが出来て良かったです。有り難うございます」
 香穂子はスッキリとした気分になりながら、吉羅に笑顔を見せた。
「私も君が愛しく思うよ」
「私も吉羅さんが大好きです」
「有り難う」
 吉羅は名残惜しげに香穂子の背中を何度も叩くと、離れてしまう。
 キュンと胸が鳴り響き、ほんのりと切ない気分を味わった。
 吉羅は静かにナイトキャップを片付けると、部屋に戻ってしまった。
 その様子を見ながら、香穂子は見送るしかなかった。

 目的は果たした。
 だから帰らなければならない。
 恐らくはそうなのだろう。
 後少しだけで良いから、吉羅のそばにいたかった。
 その後に、元に戻ろうと思っていた。
 だが、こうして告白をしたところで、果たして運命が変わっているのだろうか。
 その部分も、香穂子にとっては不安でしょうがなかった。
 何も変わっていなかったらどうしようか。
 そんな不安にもなる。
 香穂子はリリに相談をしなければならないと思う。
 何か的確なメッセージをくれるのではないだろうかと、密かに期待をしていた。

 翌朝、食事をしながら、香穂子は吉羅に切り出した。
「今日、学院に行って、リリに確かめてきます。この不思議な状況のことを」
 途端に、吉羅は眉根を寄せる。
「何かあるのかね?」
「…いずれは…、自分の時空に戻らなければならないと思っています。そのことをきちんと確認しなければならないですから…」
 吉羅は暫く黙っていたが、頷く。
「解った、一緒に学院に行こうか」
 吉羅の言葉に香穂子は頷いた。



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