*過去への扉*

14


 吉羅に抱かれて、幸せな気分を味わう。
 大好きなひとのものになって、大好きなひとを自分のものにした。
 こんなに幸せな瞬間は他にないのではないかと香穂子は思った。
 大好きな吉羅に愛されている。これほど幸せで嬉しい事は他にはないから。
 吉羅が背中を撫でてくれる。
「…香穂子…、怖い話をしようか?」
「怖い話…?」
「ああ。…私はずっと君とこうしたいと思っていたんだよ。君と出会って暫くしてから、君に夢中だった…。いつか君を自分だけのものにしたい…。それだけを考えていたんだよ…。だから君を食事に誘っていたのは、単純にそばにいたいだけだった。これは本当だ…。そして、君が誰のものにもならないように牽制をする狙いがあったんだよ…」
「吉羅さん…」
 香穂子は、ずっと愛されていたことが嬉しくて、泣きそうになる。
 吉羅にここまで愛されていたなんて、思ってめみないことだったからだ。
 香穂子は吉羅をギュッと抱き締める。
「…私…、吉羅さんに釣り合いが取れるようにとずっと頑張ってきたんですよ…。あなたと釣り合いがとれる女性になりたいと、ただそれだけをずっと考えていたんです。あなたの横にいてふさわしい女性になりたかった…」
 香穂子は感激する余りに泣きたくなる。
「香穂子…。私も君と釣り合いの取れる男になるために頑張っていたよ。君は近いうちに誰よりも素晴らしい女性になることは解っていたからね。実際はそれ以上の女性になっているがね…」
 吉羅は甘く笑うと、香穂子の躰を力強く抱き締めた。
 息が出来なくなるくらいに幸せで、どうして良いのかが解らなかった。
「…愛している…」
「私も愛しています」
 こうして言葉で躰で愛を囁き合うのは、なんて幸せなのだろうかと香穂子は思う。
「香穂子…、私の名前を呼ぶ時だが…、ちゃんと名前で呼んで貰えないかな? 私が理事長という立場だから、言いにくいのは解ってはいるけれどね…。“暁彦”という名前があるのだから」
「…はい…」
 吉羅の名前を呼ぶのは、何だか恥ずかしくてしょうがない。
 こんなにも恥ずかしいことは他にはないのではないかと思うぐらいに、香穂子には大きな問題だ。
「…暁彦さん…」
 囁くように吉羅の名前を呼ぶと、満足したかのように頷いてくれる。
 香穂子にはそれが嬉しかった。
「…香穂子…、初めての時は…、もう一度愛し合うと良いそうだよ?」
「…え…?」
 吉羅はフッと笑うと、そのまま香穂子を組み敷いてしまう。
 吉羅にされるがままに、香穂子は愛される。
 香穂子はそのまま甘い愛の世界へと連れていかれてしまった。

 吉羅と結ばれた翌日の朝。
 世の中は全く昨日とは変わってはいないというのに、香穂子の世界は素晴らしく明るい満ち足りた澄み渡る世界へと変化した。
 こんなにも素晴らしき世界は他にはないと思う。
 この時代に生まれてきて有り難う。
 吉羅と同じ時空を生きることが出来て有り難う。
 今はそれしかなかった。
 お互いにシャワーを浴びて、身仕度を整える。
 吉羅は今日も仕事なのだ。
「香穂子、うちでじっくりと待ってくれていたまえ。早目に帰ってくるから」
「はい」
 食事の後も離れたくはなくて、吉羅と香穂子はしっかりと抱き合う。
 抱き合ったりキスをしたり。
 短い時間ですらも惜しいのだ。
「香穂子、では行ってくるから。待っていてくれたまえ」
「はい」
 吉羅とキスをした後、ふわりと自分のコロンの香りが移っていることに香穂子は気付いた。
 ハッとする。
 吉羅からほんのりと薫ったアロマ風なコロンの香り。
 それがまさか自分が移した香りだとは思いもよらなかった。
 自分に嫉妬していたのだ。
 香穂子はそれに気付き、本当に泣きそうになる。
 こんなことは思ってもみなかった。
 香穂子は、やきもきした想いが総て自分が原因だったなんて、思ってもみなかった。
 同時にホッとして嬉しいと思う。
 そして、この時期によく目撃されていた吉羅のデートの相手は自分だということになる。
 ならば、吉羅が結婚する相手とは一体誰なのだろうか。
 そればかりが謎として残った。
 吉羅は他にも相手がいるというのだろうか。
 それだけはないと、香穂子は信じたかった。
 そしてそれはないと思いたかった。

 吉羅がいない間はひたすらヴァイオリンの練習をする。
 何処にいてもヴァイオリンの練習は大切だからだ。
 帰ってきてからも吉羅にはヴァイオリンを聴かせてあげたかった。
 こんなに満たされた幸せな気分でヴァイオリンが弾けるなんて今までなかった。
 今までで一番のヴァイオリンが弾けるかもしれないと、香穂子は思う。
 素敵で素晴らしいことは今までにないと、香穂子は思った。
 だが、ひとりでいる時間はかなり長い。
 吉羅がいないと時間は長い。
 寂しくてしょうがないなんて、わがままな感情が噴出してくる始末だ。
 香穂子は自分自身に苦笑いを浮かべるしかなかった。
 吉羅に抱かれて、もっともっと吉羅のことが愛しいと、もっともっと好きになってしまった。
 これが肉体も心も一緒に結ばれる幸せなのだろうと、香穂子は改めて感じずにはいられなかった。
 本当に幸せでどうしようもない。
 泣きそうになるぐらいだ。
 吉羅のことが愛しい。
 ずっとこのままでいられたら良いのに。
 だがこの時空には過去の自分がいる。
 そんなわがままは許されない。
 香穂子は、切ない想いを噛み締めるしかなかった。
 ふと、リビングにかかっているカレンダーを見る。
 そこには、満月が何時かが書かれている。
 あと一週間ほどしかない。
 未来に、自分がいるべき時間軸に行かなければならないのだ。
「…暁彦さん…」
 未来でも同じように幸せでいられたら良いのにと、香穂子は祈らずにはいられなかった。
 こんなにも大好きなのに、離れなければならないのが苦しかった。
 未来がどういう風に変わっているかは、香穂子には解らない。
 どうか良い方向で変わっていますように。
 香穂子はそう思わずにはいられなかった。

 吉羅が帰ってきた後、ふたりでのんびりと過ごす。
 香穂子にとっては最良の時間だ。
 吉羅とふたりで夕食を作り、他愛ない話をしながら、食事を楽しむ。
 こんなにもときめく時間を過ごす事が出来て、本当に幸せだ。
 大好きなひととの最良な時間は、本当はこうしてただのんびりとすることなのではないかと思った。
 ヴァイオリンを聞いて貰い、吉羅から的確なアドバイスを貰う。
 それを聞きながら、香穂子は更に頑張れると思った。
 吉羅とこうして過ごすことが出来た時間は、何よりも大切なものになると感じていた。
「幸せです。満月の夜までに沢山の思い出を作っていきますね」
「…香穂子…」
 吉羅もまた切ないのか、香穂子の躰をギュッと握り締める。
 こうして抱き締められるだけで、香穂子はまた泣きそうになった。
「二年後の暁彦さんも愛して下さいますか…?」
 香穂子が泣きそうになりながら呟くと、吉羅は更に強く抱き締める。
「…二年後の私もずっと…君を愛しているよ…。君だけをずっと愛しているよ…。君以外に私はもう誰も愛せないからね…」
 吉羅の声に香穂子は涙ぐむ。
「…有り難うございます…」
「君をずっと待っていたから…、これからも待てる…。だから心配しなくて良い…。君が帰ってきたら、最初に抱き締めよう。約束だ」
「暁彦さん…」
 吉羅は約束の指切りの代わりに、そっとキスをくれた。



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