*過去への扉*

15


 未来でもきっと愛してくれる。
 愛されると信じている。
 いや、信じるしかないのだ。
 吉羅とこうして一緒にいられるのは後少しなのだから。
 吉羅は香穂子をしっかりと抱き締めると、もう一度頬にキスをしてくれた。
「出会った頃から君を愛しているんだから、それぐらいの時間は待てるよ。だから心配しなくても大丈夫だ。君が戻る時にきちんと迎えにいけたら良いね。あ、日付と大体の時間を教えてくれたまえ」
 香穂子が詳細な日付と時間を告げると、吉羅はそれをメモできちんと取っていた。
 吉羅がもし忘れないでくれているのであれば、他に好きな女性がいなければ、恐らくは迎えにきてくれるのだろう。
 香穂子はそれを心から願った。
 吉羅とふたりで、この未来も暮らしていければ良いのにと、思わずにはいられない。
 本当に過去を変えることが出来たかは解らない。
 吉羅と結ばれたことが、明るい未来に繋がれば良いのにと思わずにはいられなかった。
 ふたりで夜空を見上げる。
 月は随分と満ちてきたようだ。その美しさにうっとりとするのと同時に、月が満ちなければ良いのにと、どこかで考えてしまう。
「…綺麗ですね…月…」
「そうだね…」
 吉羅の声も夜の海のようにとても静かだ。
「いつもなら…、月が満ちるのが楽しみなんですが…、今だけは満ちないで欲しいなんて思ってしまいます…」
 香穂子が素直に今の気持ちを告げると、吉羅もまた黙って頷いてくれた。
「…そうだね…。私もだよ…」
 吉羅はポツリと言うと、香穂子を抱き寄せる。
「君とはずっと過ごせるのが解っているはずなのに…、何だか切ないね…。必ず君を迎えに行くから、何も心配しなくて良い…」
「有り難うございます、暁彦さん…」
 吉羅はフッと笑うと、香穂子をしっかりと抱き上げる。
「時間や時空を忘れて君と愛し合いたい」
「はい。私もです…」
 吉羅は香穂子をそのまま寝室へと連れ去る。
 時間ごと連れ去られた気分だった。

 肌を重ねて愛し合う度に、香穂子は吉羅を更に深く深く愛してしまうことに気付く。
 離れたくはない。
 だが、離れなくてはならないのだ。
 香穂子は、自分がいる時空でも、このように愛されると信じる。
 強く信じるしかなかった。

 吉羅の家から、月齢が解るカレンダーが消えた。
 それはささやかな抵抗にも思えた。
 だが日付は刻み込まれている。
 香穂子の脳裏にはそれがこびりついて離れない。
 吉羅とは満月の夜に一度別れなくてはならない。
 これからの2年間は、吉羅がずっと愛してくれるように信じるしかない。
 しかし、人間とはなんて身勝手な動物なのだろうかと、香穂子は思わずにはいられない。
 最初は、吉羅に愛を伝えられたらそれで良かったのに、キスをして、愛し合うようになってから、もっともっと欲しくなる。
 欲望にはきりがない。
 香穂子はそんな自分を戒めるしかなかった。
 自重しなければならない。
 この時空には、吉羅をこよなく愛しているかつての自分がいるのだから。

 まるで何かの枷がなくなったかのように、吉羅と夜には激しく愛し合う。
 それはお互いにお互いをずっと愛することが出来るようにという、祈りが込められた行為だった。
 吉羅と愛し合った後、香穂子はしっかりと抱き締められながら、その温もりを躰に刻み付ける。
 吉羅を忘れないでいるために。
 そして忘れられないように。
 真夜中、香穂子はそっとベッドから抜け出して、月を愛でた。
 間も無く満月だ。
 月は美し過ぎるぐらいにきれいに丸くなっている。
 もう日付が変わってしまったから、正確には明日には満月ということだ。
 もうすぐこの時空から出なければならない。
 吉羅とは直ぐにまた逢えるのだから大丈夫だ。
 なのに胸が切なくて苦しい。
 過去が変わったとしても、過去は過去で、幸せを約束された未来など何処にもないのだということを、香穂子は知ってしまった。
 じっと月を眺めていると、不意に背後から抱き締められる。
「…どうしたのかね?」
「月を眺めていました」
「私のお嬢さんは詩人だね」
「狼女かもしれませんよ」
 香穂子がおどけた調子で言うと、吉羅はフッと笑った。
「じゃあ私は狼男かな…?」
 吉羅は香穂子をギュッと抱き締める。
 何も言わなかったが、その抱擁の強さで、吉羅の切なさが伝わってきた。
 解っている。
 吉羅もまた辛いのだと。
 吉羅の場合は香穂子が成長をするまで待たなければならないということがある。
 そちらもまたかなり辛いのだということを、香穂子は思い知らされた。
 暫くじっとした後、香穂子は吉羅に抱き上げられてベッドへと戻る。
 肌を合わせながら、こんなにも幸せで切ない事はないと思った。

 今日はもう前日だ。
 日付が変われば、香穂子は元の時空に帰らなければならないのだ。
 吉羅とは一旦別れなければならないのだ。
 それが何よりも辛かった。
 吉羅とふたりで今日一日はゆったりと過ごすことに決める。
「今日はどうするかね?」
 いざ吉羅に、行きたい場所やしたいことを訊かれても、香穂子は上手く答えることが出来ない。
 望みといえば、吉羅と一緒にいたい。ただそれだけなのだ。
 吉羅と一緒にいられたら、こんなにも嬉しいことはない。
 本当に望みはそれだけなのだ。
「暁彦さんと一緒にいたい…。ただ、それだけなんです…」
「…香穂子…」
 吉羅は香穂子の華奢な躰を抱き寄せると、そのままじっとしていた。
「君が大好きな…、海でも見に行こうか…」
「良いんですか…?」
「ああ。海を見て食事をして、ふたりで愛し合おう…。海が見えるホテルの部屋を取ろうか…」
「…はい」
 吉羅とはこの一日を過ごしたら終わりなのだ。
 香穂子は泣きそうになりながら、ただ頷いてみせた。

 別れなければならないことは、取りあえず今は忘れてしまおう。
 香穂子はそれだけを思って、吉羅と共に楽しむ事にした。
 これ以上に素敵な時間はないと言い聞かせる。
 吉羅と出かける前に、香穂子は短い時間ではあったが、吉羅と愛に満ち溢れた生活を送った場所を、しっかりと見つめた。
 吉羅とふたりで過ごした場所を、香穂子は絶対に忘れないと思った。
 こんなにも素晴らしい場所は他にはないと思う。
 暫くのお別れだ。
 部屋の風景を刻み付けた。
 部屋の様子をじっと見つめていると、吉羅が見守るように見つめてくれる。
 香穂子にはそれが嬉しかった。
「良いかね…?」
「はい。有り難うございます」
 香穂子はしっかりと記憶に刻み付けた後、吉羅に頷いた。
「また、ここには戻って来れるから」
「はい」
 吉羅の言葉に、香穂子は力強く頷いた。

 吉羅の車に乗り込んで、海へと向かう。
 六本木から横浜を経由して、湘南方面に向かう。
 海といえばやはりこの地域だからだ。
 ドライブをしている間だけでも、とても幸せでしょうがない。
 こんなに幸せでどうしようかと思ってしまう。
 有り難うと、ただ感謝する気持ちしか香穂子にはなかった。
「魚の美味しい店があってね、そこでランチを楽しもうか。後は夏だから美味しいかき氷の店があるからね。そこに行くことにしよう」
「はい。嬉しいです。今日は最高の休日になるようですね!」
「ああ。そうだね。最高の休日にしよう」
 こうしてふたりで一緒に過ごすのは、取りあえずは今夜までだから、たっぷりと楽しむことにする。
 幸せな気持ちが溢れていた。



Back Top Next