*過去への扉*

5


 吉羅に恋人がいない。
 それは本当なのだろうか。つい半信半疑になってしまう。
 この頃から、吉羅に女性の影を感じ始めたのだから。
「だったら、良いんですけれど…」
 香穂子の言葉に、吉羅は曖昧に笑う。
 ひょっとして、恋人はいないが愛している存在はいるのだろうか。
 そんなことを考えさせられるような表情だった。
「だから君は何も心配しなくて良い」
「有り難うございます」
 香穂子は頷くと、吉羅に笑顔を向けた。
「そろそろ眠りたまえ。私もかなり眠くなってしまったからね」
 吉羅は立ち上がると、香穂子のグラスも一緒に片付けてくれる。
 それが嬉しくもあり、何処か保護対象としてしか見られていないことへの反発もあった。
「日野君、しっかりと休みなさい」
「…はい…」
 吉羅はベッドルームへと消えていく。
 吉羅が行ってしまった後で、緊張をとくように香穂子は大きな溜め息を吐いた。
 吉羅はやはり素晴らしい魅力の持ち主だった。
 こんなにも艶やかで魅惑的な男性は他にはいないだろう。
 吉羅のガウン姿を見るだけで、耳の下が痛くなるぐらいに緊張してしまった。
 それだけ男の色香を感じられたということだ。
 香穂子はもう一度溜め息を吐くと、ベッドに潜り込む。
 眠らなければならない。
 そう思いながらも、なかなか眠れずにいる。
 吉羅のことを考えているうちに、眠りが深くなってくる。
 そのまま香穂子はゆっくりと眠りの世界へと向かった。

 いつの間にか眠っていたらしい。
 吉羅がキッチンで物音をさせている。
 目を開いてキッチンを見ると、吉羅が朝食を作っているところだった。
 香穂子はその姿を見るなり、飛び起きる。
「日野君、起きたのかね?」
「あ、り、理事長、おはようございます」
「もう少し寝ていても構わないよ。今日は土曜日…、あ…、君には関係なかったね」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子を見た。
「理事長は土曜日の午前中は必ず仕事をされていますものね。…だから、今日も出勤ですね。お仕事が終わると、必ずランチを誘って下さっていたのが、とても嬉しかったんですよ」
 何だか懐かしくて、香穂子は甘酸っぱい気分になる。
「そうだったね。というよりは…そうだね、だね。今日は直ぐに帰って来るからランチを…」
 吉羅がここまで言ったところで、香穂子は思い出す。
 吉羅とのランチがどんなに楽しみだったかを。
 一週間で一番楽しみだった。
「吉羅理事長、土曜日もそれを楽しみに練習している、高校生の私とランチをしてあげて下さい。本当に楽しみでしたから…」
 香穂子は、今も続いている吉羅への淡い恋心を切なく感じながら、フッと笑みを浮かべた。
「…解った。君が代そう言うのだから、そうなんだろうね。解った。ランチは高校生の君としよう。大学生の君はどうするのかね?」
「私はのんびりしています」
「そうか。昼食は、オーガニックのパスタやソースが置いてあるから、それを食べると良い。キッチンのパントリースペースに置いてあるから」
「はい。有り難うございます」
 オーガニックだなんて吉羅らしいと思いながら、香穂子はにっこりと笑った。
「朝食が出来た。一緒に食べようか」
「はい。有り難うございます」
 吉羅が出してくれたのはシンプルな茶粥と、ご飯の友の数々だ。
 ご飯の友は、健康に良さそうな佃煮や漬物。鮭もちゃんと焼かれている。
「理事長すごいですね」
「健康には気を遣うようにしているからね」
 吉羅はさらりと言うと、朝食を食べるようにと促した。
 吉羅はきちんとしているのに、香穂子は自分が寝起き姿なのが恥ずかしくなる。
 香穂子は小さくなりながら食事をする。
「美味しいです」
「それは良かった」
 吉羅は何処かホッとするように言うと、香穂子を優しいまなざしで見つめてきた。
 その瞳がとても愛らしいと思い、香穂子は笑顔になる。
「理事長と朝食を取ったことはないですから、新鮮です」
「そうか…」
 吉羅は意外そうな口振りで言うと、手早く茶粥を食べた。
 いつの間にか吉羅は朝食を食べ終えている。
「私は仕事に向かうが、君はここでゆっくりとしていたまえ。不用意な外出は避けたほうが良いだろうからね」
「…そうですね…」
 本当に吉羅の言う通りだ。
 誰か知り合いに逢ってしまったら、不審がられるかもしれないのだから。
「ここで待っていたまえ」
「はい、解りました」
 香穂子は敬礼をするとー吉羅を笑顔で見つめた。
 ふと、吉羅のネクタイが曲がっているのに気付いた。いつもは完璧なのに、どうして今日に限っては、ネクタイが曲がっているのだろうか。
「あ、吉羅理事長」
 行こうとする吉羅を呼び止める。
「あの、ネクタイが曲がっています」
「…有り難う」
 吉羅は少し照れ臭そうな顔をする。それがまた可愛く感じた。
「あ、直しましょうか?」
「頼んだ」
「お母さんに教わっただけなので下手くそかもしれないですけれど…」
 香穂子は、半ばドキドキしながら、吉羅のネクタイを結び直しをする。
 学院の普通科はネクタイだったから、結ぶのは慣れてはいる。
 香穂子がネクタイを締め終えると、吉羅は何処かクールなまなざしを浮かべてきた。
「上手いものだね」
「理事長、学院の普通科女子の制服はネクタイですよ」
「そうだったね」
 吉羅は鏡に映る自分の姿を確認して頷いた。
「なるほど…。確かにそうだね」
 吉羅のまなざしは先ほどまでクールだったのに、香穂子の見る瞳が優しいものになる。
 それが可愛い。
「では行ってくる」
「いってらっしゃい」
 吉羅を玄関先まで送りにいって、香穂子はハッとする。
 ネクタイの結び方が反対だ。
 自分のためにだけ結んでいたものだから、反対だったのだ。
 吉羅を呼び止めようとしたが、間に合わず、行ってしまった。
「…理事長のいつもの結び方とは反対何だよね…」
 香穂子はそこまで言ってハッとする。
 確か、三年生の初夏、吉羅とランチに行った時に、ネクタイの結び方が違っていたことがあった。
 二回ほど違う結び方をしていたのを思い出す。
 ということは、その結び方をしていたのは自分自身かもしれない。
 香穂子はその事実に愕然としてしまう。
 ネクタイを誰かに結んで貰ったと思い、胸がキリキリとしたことを覚えている。
 まさかそれが原因だなんて思ってもみなかった。
 自分自身が苦しめていたのかもしれない。
 吉羅のネクタイの結び目の違いに気付くほどによく見ていたのだなと、香穂子は自分の想いの深さを感じずにはいられなかった。
 あの頃からずっと吉羅には大人の恋人がいると信じていた。
 香穂子は切なさを感じるのと同時に、懐かしい真直ぐな恋情が、まだ自分の中で生き続けていることに気付いた。
 香穂子はひとりになり、吉羅の家でのんびりとする。
 不用意に外出は出来ないから、ここでひとりの時間を楽しむことにした。
 吉羅が未来の香穂子であることを信じてくれたのが嬉しい。
 香穂子は吉羅が帰って来るのが待ち遠しいと思いながら、ひとりで過ごす。
 吉羅に早く逢いたいと思うが、過去の自分がそうすることで傷付いてしまうのは避けたかった。
 楽しむように心掛けた。
 吉羅を待っていると、早く逢いたくなってしまう。
 その気持ちを香穂子はなるべく抑えるように努力する。
 過去の自分がこころから楽しんでいるようにと、香穂子はしっかりと祈った。



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