*過去への扉*


 長い夏の陽が傾く頃に、吉羅が帰ってきた。
 何だか癒されたような顔をしている。
 その顔を見ているだけで、本当に楽しいひとときを過ごした事が解る。
 過去の自分に、吉羅がこんなにも幸せそうな顔をしているのを見せてあげたかった。
 だがほんの少しだけではあるが、過去の自分に嫉妬をしてしまった。
「楽しかったですか? 高校生の私との時間は?」
 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は答えずに、ただ笑みを浮かべただけだった。
 その笑顔を見れば、吉羅が楽しかったことは明白だ。
 何だか嬉しくて、少しだけ悔しい気分だった。
「日野君、食事に行こうか? お腹が空いただろう?」
「有り難うございます」
「何か食べたいものはあるかね?」
「…そうですね…」
 吉羅がネクタイの結び型を変えていた日に食べたランチは何だったのだろうかと、香穂子は一生懸命思い出す。
 オーガニックなフレンチを食べたような気がする。
 だったらあっさりとしたものが良いだろう。
「何が食べたいかな?」
「…えっと…、吉羅さんは今日…フレンチを食べたと思いますし…、私もあっさりとしたものが良いので…、和食が良いです。美味しいおそばが食べたいです」
 吉羅は驚いたように目を見張ったが、同時に思い出すかのように頷く。
「…知っていて当然…か…。君は少し未来の日野香穂子なんだから」
「はい」
 香穂子は笑顔で頷くと、吉羅を真直ぐ見つめた。
「では美味い蕎麦と簡単な和食を食べさせてくれる店がある。そこに行こうか」
「はい。嬉しいです!」
 香穂子はかつて高校生の時にそうであったように、笑顔で答える。
 すると吉羅が目をスッと細めた。
「日野君、行こうか」
「はい」
 香穂子は、高校生の頃と同じように吉羅の後ろをひょこひょこと歩く。
 吉羅とのこの距離が気持ちの距離と同じだと、当時は思ったものだ。
 今もそれはある。
 時間が経っても心の距離は全く縮まらなかった。
 吉羅に着いて入ったのは、老舗の蕎麦屋だった。
 素朴な雰囲気ではあるが、価格は老舗だけあり高級だ。
「あ、せいろが美味しそうです。天せいろにしますっ」
 香穂子が明るい調子で言うと、吉羅も同じものを注文したわ
 ふたりで静かに蕎麦を啜る。
「美味しいですとっても。吉羅さんと食べ歩きをすると、美食家になってしまいますね」
 香穂子が笑みを浮かべると、吉羅もまた笑う。
 静かに食事をしていても、とても安らぐ。
 おしゃべりをしながらする食事も楽しいのだが、こうして吉羅とふたりで静かに食事をするのもまた素敵だった。
「こうして吉羅さんと食事が出来るのが幸せです。…私…、今でもこうして一緒にいられることが嬉しいです。過去の私には申し訳ないと思いますけれどね」
 蕎麦を食べた後、ふたりで麻布十番辺りを散歩する。
 こうしているだけで、なんて幸せなのだろうかと思わずにはいられなかった。
「ここのたい焼きが美味しくてね。買って行こうか」
「はいっ」
 香穂子が笑顔で答えれば、吉羅はフッと笑う。
 話さなくても、お互いの雰囲気で話しているような気がする。
 夏の少しさらりとした夕刻の風に晒されながら、ノスタルジックな気分を味わった。
「吉羅さん、とても気持ちが良いです。夕刻は散歩するのにぴったりですよね」
「そうだね」
 吉羅とふたりで夕涼みをするように歩くのは初めてだ。
 基本は夜に逢う事はなかったから。

 家に戻り、エアコンディショナーが良く効く部屋に佇む。
「吉羅理事長、お礼に一曲弾きますね」
「有り難う」
 香穂子は唯一の持ち物であるヴァイオリンを構える、“君を愛す”を弾いた。
 かつて吉羅がコンクールで弾いた曲であることを、金澤から聴いたのだ。
 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅はしっかりと拍手をしてくれる。
「やはり技量は向上しているね。懐かしい曲だ。君の音色はいつも温かさがあるね」
 吉羅にしみじみと言われて、香穂子は笑顔で静かに答えた。
「吉羅理事長、有り難うございます。こうしてヴァイオリンを今も頑張れるのは、理事長が環境を整えて下さるからです。今、学院の大学は更にカリキュラムが充実しているんですよ。だから私も頑張れるんです」
「未来の私も相変わらず奮闘しているようだね。君の話が聞けて嬉しかったよ」
 ふたりでこうして一緒にいる。
 それだけでなんて幸せなのだろうか。
 ずっとずっと憬れていたのだから。
「君のヴァイオリンをこうしていつでも聴きたいものだね」
「出来る限りヴァイオリンを弾きます」
「そうしてくれると私としても嬉しい」
 吉羅のためなら、何曲もヴァイオリンを奏でられると香穂子は思う。
 吉羅には返しきることが出来ないと思う恩を沢山感じていた。
「さてと私は仕事をすることにしよう。君はゆっくりとしていると良い。たい焼きもあるからね」
「はい、有り難うございます」
 吉羅は立ち上がると、部屋に籠ってしまう。
 ひとりきりになり、香穂子は目の前にあるたい焼きをただ見つめる。
 たい焼きをパクつくと、美味しくない。
 吉羅がいないからだ。
 仕事に向かった筈の吉羅がふと戻ってきた。
「脳のエネルギーがいるからね」
 吉羅が来た途端に、たい焼きがとても美味しくなるのを感じた。
「私もここで一緒に食べようかな」
「はい!」
「お茶を淹れよう。美味しい宇治茶があるからね」
「私手伝います。お昼が一人だったから調理器具が何処にあるかを見たんです」
「解った。じゃあ手伝って貰おう」
「はいっ」
 香穂子は吉羅と一緒にキッチンに立つ。
 吉羅とこうしていると、まるで恋人や妻にでもなった気持ちだ。
 香穂子は吉羅と一緒にこうしていられることが嬉しくてしょうがなかった。

 吉羅とふたりでお茶を淹れて、たい焼きを食べる。
 こうしていると本当に楽しかった。
 香穂子は、吉羅をつい何度も見てしまう。
 こうして見つめていると、楽しい照れ臭さでいっぱいになった。
 いつまでもこうしていられたら良いのに。
 だが、戻らなければならないことも解っている。
 どうやって戻るかは、解ってはいる。
 学院のあの森に行けば良いのだ。
 背筋がゾクリとする。香穂子は胸が軋むほど痛むのを感じていた。
「こうしていると落ち着きます」
「そうだね」
 吉羅に同意して貰える。それはとても嬉しいことだった。
 香穂子は本当にずっとこうしていたいと心から思う。
 吉羅が本当に好きだ。
 過去に来て、益々好きになってしまったかもしれない。

 お風呂上がりに、香穂子は膝を抱えながら窓の外を見つめる。
 月が見えない。
 新月なのかもしれない。
 香穂子はそんなことをずっと考えながら、六本木の夜の風景を見つめていた。
「日野君、まだ起きていたのかね」
「…吉羅さん…」
 振り返ると、そこには吉羅がいる。
「今日もナイトキャップに付き合わないかね?」
「はい」
 香穂子が笑顔で返事をすると、吉羅は口当たりの良い甘いお酒を持ってきてくれた。
「杏のお酒だが、甘味がキツくて私は飲めなくてね。君なら飲めるだろう」
「有り難うございます」
 香穂子はグラスを受け取った後、夜空を見上げる。
 数えられるほどだが、綺麗な星が見える。
「星が瞬いているなあって。お月様が見えないのは、新月になったばかりだからかな、なんて思います」
「夜空か…。最近、じっくりと見上げていなかったからね…」
 吉羅のしみじみとした言葉に、香穂子は寄り添うようにして夜空を見上げた。



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