*過去への扉*

8


 まさか、吉羅には恋人がいないなんて思いもよらなかった。
 これには香穂子も驚きを隠しきられなかった。
「…まさか…。吉羅さんに恋人がいないなんて、私には考えられないです…」
「本当だ。事実だ」
 吉羅はさらりと言うと、苦笑いを浮かべた。
「確かに、この年齢で本命がいないのは、おかしいことかもしれないね」
「そのほうが…嬉しいかも…しれないです…」

「え…?」
 吉羅が聞き返すものだから、恥ずかしくなる。
 香穂子は慌てて誤魔化すように笑うことしか出来なかった。
「何処か行きたいところはないかね?」
「ビーチに行きたいです。海開きするギリギリのビーチ」
「海の家が建設中でうるさいだろう。そうだ、私が良い場所を知っている。一緒に行こうか」
「有り難うございます」
 香穂子は嬉しくて、つい笑顔になった。
 どのようななビーチだろうか。
 吉羅のおすすめだから、つい期待をしてしまう。
「じゃあ行こうか」
「はい」
 吉羅とふたりで過ごせるなんて、なんてロマンティックなのだろうかと思った。
 吉羅の車が有名なホテルの駐車場へと入る。
「ここなら静かなはずだ」
「あ、有り難うございます」
 やはり吉羅らしいと思う。
 まるで外国のリゾート地に来たような気分だった。
「素敵ですね。何だか別世界ですね」
「このホテルのプライベートビーチなら、まだ静かだろうからね。支配人には言っておいたから、行こうか」
「は、はいっ」
 吉羅はやはりセレブリティなのだと改めて思いながら、香穂子は着いていった。
 海開き前だからか、ビーチには殆どひとはいない。静かに雰囲気だ。
 ビーチに到着した頃から、いつの間にか空はグレーになり、梅雨らしくなっていた。
 香穂子は砂浜を歩きながら、子供のような気分になる。
 吉羅と一緒にいると、素直になれる。
 子供のように無防備になれるような気がする。
 背伸びをしたいのに、結局は、背伸びが出来ずにそのままの子供になる。
 これでは、吉羅に子どもと思われてもしかたがない。
 香穂子が海岸で歩いていると、吉羅はその後ろをゆっくりと歩いてくる。
 いつもとは逆だ。
 吉羅は先に歩いて導いてくれたり、後ろにいてバックアップしてくれたり…。
 香穂子を全力で支えてくれている。
 こうして支えられているのだとしみじみと感じて、嬉しいと思う。
 吉羅には感謝しかない。
 なのに、吉羅が結婚をするという事実は、受け入れることがなかなか出来ない。
 吉羅のことを思えば、ここはきちんと祝福をしてあげなければならないのに。
 なかなかそう出来ない自分がいる。
 香穂子は、それが切なかった。
 歩いているとほんのりと泣きそうになった。
「どうしたのかね…?」
「吉羅理事長…」
「一瞬、寂しそうな顔をしたからね。君もそんな愁いのある表情をするようになったのかと思うと、確実に未来の日野香穂子だと思うね」
「…理事長…」
 香穂子は、吉羅をじっと見つめる。泣きそうな気分になる。
「どうしたのかね?」
 今、ここで“好きだ”と言うチャンスだと、香穂子は思う。
 この時空には、吉羅を好きだと言うためにやってきたのだから。
 それは吉羅には解って欲しい。
 思いはそれだけだ。
 赤い髪が風に靡く。
 今しかない。
 今、ここにいる間は、理事長と生徒だという枷は外れているのだから。
 ここで好きだと伝えたところで、何か影響があるとは思えない。
 それでも言わなければならないと思う。
 だが、言ってしまえば、元の時空に帰らなければならない。
 それは切ないが、しかたがないことなのだと思うしかなかった。
 帰えれば未来が変わっているだろうか。
 それとも変わらないままなのだろうか。
 そのあたりは解らないが。
 香穂子が潤んだ瞳で見つめていると、吉羅は怪訝そうに見つめてきた。
「日野君…、どうしたのかね?」
「吉羅さん…、私…」
 勇気をかき集めなければならない。
 この時空にいつまでもいられるわけではないことを、解っているのだから。
 グレーの空が、香穂子を更に切なくさせていく。
 吉羅への想いが強くなり、自分でもどうして良いのかが、解らなかった。
 吉羅のことが好きだ。
 好きでしょうがない想いが全身から滲んできた。
「…どうしたのかね?」
「吉羅さん…私…」
 顔を覗かれて、香穂子は唇を噛む。
 吉羅への想いが溢れてきて、どうしようもなくなる。
 雷鳴が轟いている。
 まるで香穂子の鼓動の音に反応しているようだ。
 頬に雨を感じる。
 言うしかない。
 今しかチャンスはないのだか。
 香穂子は、真っ直ぐ吉羅を見た。
 ちゃんと大好きであると言わなければならない。
 それが出来なかったからこそ、こんなにも後悔したのだから。
 もう二度とそのような後悔はしたくない。
 香穂子にはその想いしかなかった。
 吉羅にとっては迷惑千万な話になるのは解っている。
 早晩、吉羅には運命の女性が現れるのだろうから。
 それを解っているからこそ、香穂子は切ない気分になった。
 吉羅に言わないよりは後悔をしないかもしれないから。
 深呼吸をしながら香穂子は言おうとした。
 だが、なかなか好きだという言葉が出てこない。
 上手く言えない。
「日野君…、どうしたのかね?」
「…私…、理事長…、私がこの時空に来たのは…」
「君がここに来たのは?」
 吉羅は怪訝そうに聞き返す。
「…あの…」
 タイミングが良いのか悪いのか。
 吉羅の携帯電話が鳴り響く。
「失礼」
 吉羅は直ぐに携帯電話を取り出す。
「…ああ、君か。すまないが他に用があってね…。そうだね、そうすると良い」
 吉羅が話しているのは明らかに女性のようだった。
 恋人がいないなんて嘘なのだろうか。
 香穂子はついやきもきしてしまう。
 本当はやきもきする資格はないというのに。
 吉羅が電話を終えると、香穂子は告白する気が萎えてしまった。
「…続きは?」
「…またお話をします」
「ああ。そうしてくれたまえ」
 吉羅は興味などないとばかりにさらりと言うと、そのまま何も訊く事はなかった。
 香穂子が砂浜を歩き出すと、吉羅もまた歩き出す。
 香穂子は先ほどよりも沈んだ気持ちで歩いていたからか、そのまま、歩みまで沈んでしまった。
 ふと足が深く潜ってしまう。
 だが、直ぐには対応することが出来なくて、そのまま躓いてしまいそうになった。
「…あっ…!」
「…おっと」
 吉羅にスマートに抱き留められてしまう。それがなければ、砂塗れになってしまいそうになった。
「…大丈夫かね…?」
「有り難うございます。大丈夫です…」
 香穂子はバランスを何とか立て直すと、吉羅には大丈夫だという視線を送った。
 だが、吉羅は放してはくれなかった。
 吉羅はきちんと香穂子のバランスを整えた後で、ようやく放してくれた。
 だが、ギュッと手を繋がれてしまう。
「これで君が砂浜に埋まることはなくなるだろう」
「あ、有り難うございます」
 有り難うが適切な言葉だとは思わなかったが、今はそれしか思い付かなかった。
 吉羅が大きな手で手を繋いでくれたのは初めてだ。
 嬉しくて今度はドキドキしてしょうがない。
 吉羅とふたりで手を繋ぐことが出来るのは、嬉しくてしょうがなかった。
 砂浜から出た後も、吉羅は手をしっかりと繋いでくれている。
 その手の強さに香穂子は夢見心地になる。
 ふわふわとした気分になりながら、香穂子は吉羅に寄り添った。



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