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まさか、吉羅には恋人がいないなんて思いもよらなかった。 これには香穂子も驚きを隠しきられなかった。 「…まさか…。吉羅さんに恋人がいないなんて、私には考えられないです…」 「本当だ。事実だ」 吉羅はさらりと言うと、苦笑いを浮かべた。 「確かに、この年齢で本命がいないのは、おかしいことかもしれないね」 「そのほうが…嬉しいかも…しれないです…」 「え…?」 吉羅が聞き返すものだから、恥ずかしくなる。 香穂子は慌てて誤魔化すように笑うことしか出来なかった。 「何処か行きたいところはないかね?」 「ビーチに行きたいです。海開きするギリギリのビーチ」 「海の家が建設中でうるさいだろう。そうだ、私が良い場所を知っている。一緒に行こうか」 「有り難うございます」 香穂子は嬉しくて、つい笑顔になった。 どのようななビーチだろうか。 吉羅のおすすめだから、つい期待をしてしまう。 「じゃあ行こうか」 「はい」 吉羅とふたりで過ごせるなんて、なんてロマンティックなのだろうかと思った。 吉羅の車が有名なホテルの駐車場へと入る。 「ここなら静かなはずだ」 「あ、有り難うございます」 やはり吉羅らしいと思う。 まるで外国のリゾート地に来たような気分だった。 「素敵ですね。何だか別世界ですね」 「このホテルのプライベートビーチなら、まだ静かだろうからね。支配人には言っておいたから、行こうか」 「は、はいっ」 吉羅はやはりセレブリティなのだと改めて思いながら、香穂子は着いていった。 海開き前だからか、ビーチには殆どひとはいない。静かに雰囲気だ。 ビーチに到着した頃から、いつの間にか空はグレーになり、梅雨らしくなっていた。 香穂子は砂浜を歩きながら、子供のような気分になる。 吉羅と一緒にいると、素直になれる。 子供のように無防備になれるような気がする。 背伸びをしたいのに、結局は、背伸びが出来ずにそのままの子供になる。 これでは、吉羅に子どもと思われてもしかたがない。 香穂子が海岸で歩いていると、吉羅はその後ろをゆっくりと歩いてくる。 いつもとは逆だ。 吉羅は先に歩いて導いてくれたり、後ろにいてバックアップしてくれたり…。 香穂子を全力で支えてくれている。 こうして支えられているのだとしみじみと感じて、嬉しいと思う。 吉羅には感謝しかない。 なのに、吉羅が結婚をするという事実は、受け入れることがなかなか出来ない。 吉羅のことを思えば、ここはきちんと祝福をしてあげなければならないのに。 なかなかそう出来ない自分がいる。 香穂子は、それが切なかった。 歩いているとほんのりと泣きそうになった。 「どうしたのかね…?」 「吉羅理事長…」 「一瞬、寂しそうな顔をしたからね。君もそんな愁いのある表情をするようになったのかと思うと、確実に未来の日野香穂子だと思うね」 「…理事長…」 香穂子は、吉羅をじっと見つめる。泣きそうな気分になる。 「どうしたのかね?」 今、ここで“好きだ”と言うチャンスだと、香穂子は思う。 この時空には、吉羅を好きだと言うためにやってきたのだから。 それは吉羅には解って欲しい。 思いはそれだけだ。 赤い髪が風に靡く。 今しかない。 今、ここにいる間は、理事長と生徒だという枷は外れているのだから。 ここで好きだと伝えたところで、何か影響があるとは思えない。 それでも言わなければならないと思う。 だが、言ってしまえば、元の時空に帰らなければならない。 それは切ないが、しかたがないことなのだと思うしかなかった。 帰えれば未来が変わっているだろうか。 それとも変わらないままなのだろうか。 そのあたりは解らないが。 香穂子が潤んだ瞳で見つめていると、吉羅は怪訝そうに見つめてきた。 「日野君…、どうしたのかね?」 「吉羅さん…、私…」 勇気をかき集めなければならない。 この時空にいつまでもいられるわけではないことを、解っているのだから。 グレーの空が、香穂子を更に切なくさせていく。 吉羅への想いが強くなり、自分でもどうして良いのかが、解らなかった。 吉羅のことが好きだ。 好きでしょうがない想いが全身から滲んできた。 「…どうしたのかね?」 「吉羅さん…私…」 顔を覗かれて、香穂子は唇を噛む。 吉羅への想いが溢れてきて、どうしようもなくなる。 雷鳴が轟いている。 まるで香穂子の鼓動の音に反応しているようだ。 頬に雨を感じる。 言うしかない。 今しかチャンスはないのだか。 香穂子は、真っ直ぐ吉羅を見た。 ちゃんと大好きであると言わなければならない。 それが出来なかったからこそ、こんなにも後悔したのだから。 もう二度とそのような後悔はしたくない。 香穂子にはその想いしかなかった。 吉羅にとっては迷惑千万な話になるのは解っている。 早晩、吉羅には運命の女性が現れるのだろうから。 それを解っているからこそ、香穂子は切ない気分になった。 吉羅に言わないよりは後悔をしないかもしれないから。 深呼吸をしながら香穂子は言おうとした。 だが、なかなか好きだという言葉が出てこない。 上手く言えない。 「日野君…、どうしたのかね?」 「…私…、理事長…、私がこの時空に来たのは…」 「君がここに来たのは?」 吉羅は怪訝そうに聞き返す。 「…あの…」 タイミングが良いのか悪いのか。 吉羅の携帯電話が鳴り響く。 「失礼」 吉羅は直ぐに携帯電話を取り出す。 「…ああ、君か。すまないが他に用があってね…。そうだね、そうすると良い」 吉羅が話しているのは明らかに女性のようだった。 恋人がいないなんて嘘なのだろうか。 香穂子はついやきもきしてしまう。 本当はやきもきする資格はないというのに。 吉羅が電話を終えると、香穂子は告白する気が萎えてしまった。 「…続きは?」 「…またお話をします」 「ああ。そうしてくれたまえ」 吉羅は興味などないとばかりにさらりと言うと、そのまま何も訊く事はなかった。 香穂子が砂浜を歩き出すと、吉羅もまた歩き出す。 香穂子は先ほどよりも沈んだ気持ちで歩いていたからか、そのまま、歩みまで沈んでしまった。 ふと足が深く潜ってしまう。 だが、直ぐには対応することが出来なくて、そのまま躓いてしまいそうになった。 「…あっ…!」 「…おっと」 吉羅にスマートに抱き留められてしまう。それがなければ、砂塗れになってしまいそうになった。 「…大丈夫かね…?」 「有り難うございます。大丈夫です…」 香穂子はバランスを何とか立て直すと、吉羅には大丈夫だという視線を送った。 だが、吉羅は放してはくれなかった。 吉羅はきちんと香穂子のバランスを整えた後で、ようやく放してくれた。 だが、ギュッと手を繋がれてしまう。 「これで君が砂浜に埋まることはなくなるだろう」 「あ、有り難うございます」 有り難うが適切な言葉だとは思わなかったが、今はそれしか思い付かなかった。 吉羅が大きな手で手を繋いでくれたのは初めてだ。 嬉しくて今度はドキドキしてしょうがない。 吉羅とふたりで手を繋ぐことが出来るのは、嬉しくてしょうがなかった。 砂浜から出た後も、吉羅は手をしっかりと繋いでくれている。 その手の強さに香穂子は夢見心地になる。 ふわふわとした気分になりながら、香穂子は吉羅に寄り添った。 |