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怪我をしないために、こうして手を繋いでくれたのは解っている。 だが、吉羅と手をつなげるなんて、なんて素敵なことなのだろうか。 香穂子はそれがとても幸せな気分のように思えた。 「少し紅茶でも飲んで休憩でもして行こうか。その後、横浜でも行こうか」 まるで夢に見たようなデートコースだ。 だが、これがデートだと訊いても、きっと吉羅はそうじゃないと言うのだろう。 香穂子にはそれが悩みだ。 きちんと訊いても、吉羅ははぐらかすことしかしないだろう。 「どうしたのかね…?」 「まるでデートみたいだって思ったんです」 香穂子は明るくカラッと晴れた日のように言うと、吉羅からは意外な言葉が聞かれた。 「私はそのつもりだがね」 「…え…?」 まさかこのようなことを吉羅が言うとは思わなかった。 いつも通りではない吉羅の言葉に、香穂子は戸惑うばかりだった。 「…いつもなら…、“デートじゃない”と、理事長は言うのに…」 「それは君が学院の生徒だからだよ」 「…今の私もそうですよ」 「成人しているからね、君は…。…後、君は正確には今、この時空では学院の生徒ではないからね」 「…そうですが…」 確かに吉羅の言う通りで、香穂子は学院の生徒ではない。 この時空では。 「理事長である以上は、生徒とは、デートをするような考えられないからね。一緒に出かけるというのは、あくまでも生徒を勇気づけるにすぎないよ」 「…そうです…ね」 昔はダメで、今はどうして良いのかが解らない。 「…それは建て前…なのかもしれないね…」 吉羅はフッと静かに言う。 「建て前?」 香穂子が聞き返すと、吉羅はそれ以上は話さずに、曖昧に微笑むだけだった。 「さあ、ここのケーキは美味しいらしい。しっかりと食べなさい」 「有り難うございます」 「ああ」 吉羅に言われて、香穂子は自分のために運ばれてきたケーキを食べる。 こうしていると本当にデートをする間柄にしか見えない。 何だかケーキでごまかされてしまったような気もしたが、遠慮なく食べることにした。 吉羅は紅茶とダークチョコレートを優雅に楽しんでいる。 こうやっていると、勘違いするかのような夢を見てしまうのではないかと思った。 優雅にお茶をしている間は、本当に恋人同士のように、カフェでの時間を楽しんだ。 帰りも吉羅の運転で都内へと向かう。 幸せな瞬間だ。 だが、この魔法もいつかは切れてしまうかと思うと、切なくて堪らなかった。 車を一旦吉羅の住む高級アパートメントの駐車場に置いて、部屋に戻った。 香穂子は魔法がまだ醒めないようにと、願わずにはいられない。 「少し休憩をしたら、食事に行こうか」 「はい」 夕食の間にも魔法はかかっているのだろうか。 そうであって欲しいと願いながら、香穂子はメイクを直したりすることにした。 メイクを綺麗にリタッチしていると、華やかな気分になる。 もっと綺麗になりたいと思わずにはいられなかった。 少しばかり休憩をした後、吉羅に連れられて、雰囲気が素晴らしい和テイストのレストランに連れていって貰う。 これは現実。 だが夢なのだ。 泡沫に消えてしまう夢なのだ。 それが解っているから、香穂子は心から楽しもうと決めた。 ミッドタウンを背筋を伸ばして闊歩する。 これ以上にご機嫌なことはない。 まるで世界一の美人にでもなった気分に浸りながら、香穂子は吉羅のそばで堂々と振る舞う事にした。 いつもの日野香穂子はいないのだ。 今だけは吉羅暁彦と対等の立場にあるのだから。 そう思うと、いつもは苦手なハイヒールの足捌きが上手くいっているような気がした。 誰もがこちらに注目している。 それだけで香穂子は笑顔になった。 ふと、見慣れた顔を遠くで見る。 クラスメイトだ。 しかも罪のない噂好きのクラスメイトだ。 一瞬、香穂子は動揺してしまう。 距離が離れているから大丈夫だとは思いながらも、吉羅は独特のセレブリティなオーラがあるから、バレてしまうのではないかと思う。 香穂子にとっては、彼女は“元クラスメイト”に過ぎないのだが。 動揺してしまったせいか、香穂子は足をねじってしまう。 自分でも驚いてしまったが、後の祭りだ。 だが吉羅は咄嗟に香穂子の腰を支えてくれた。 ほんの一瞬のドキドキし過ぎてしまうかのような吉羅の行為に、香穂子は元クラスメイトがいることなど、すっかりと忘れてしまっていた。 「気をつけるように」 「ごめんなさい。もう大丈夫なので…」 香穂子がやんわりと言ったが、吉羅は腰を抱くのを一向に止めようとはしなかった。 「あ、あの、理事長。クラスメイトが見ています…」 「大学の?」 「いいえ…、高校の時の…」 「だったら、良いじゃないか。今の君にとっては“元クラスメイト”だろう…?」 「確かに、そうなんですけれど…」 香穂子は複雑な気持ちを声に乗せて、吉羅に伝える。 「だったら構わないじゃないか、日野君。それにあの距離じゃ、私の顔は解ったとしても、君の顔は解らないんじゃないかね」 「…確かに…」 確かに吉羅が言うには一理ある。 だが吉羅は確実に解るだろう。 「吉羅理事長は直ぐに解ると思うとんですけれど…」 「確かにね。だが、君が“日野香穂子”だとは解らないはずだ。ただの私の恋人ぐらいにしか、思ってはいないよ。しかもその相手が二年後の日野香穂子であることはね…」 さらりと言う吉羅の爆弾発言に、香穂子は一瞬、胸がドキリと跳ね上げさせる。 「だから心配しなくて良い。夕食を楽しもう」 「…はい…」 香穂子はしっかりと頷くと、吉羅の言う通りに、堂々としておこうと思った。 吉羅とふたりで、大人の瀟洒な雰囲気が素晴らしいレストランで食事を取る。 こうしてふたりで向かい合っているだけで、香穂子は嬉しかった。 高校生の時とは違って、大人のふたりとして食事を楽しむ。 それがとても素敵だと思う。 ほんの少しだけだがアルコールも飲めて、充実した時間を過ごせた。 吉羅の家は、ミッドタウンの中にあるから、帰りはのんびりと歩くだけだ。 吉羅は、帰る時にも、恋人と同じように手をしっかりと繋いでくれた。 照れ臭い幸せに、つい夜空を見上げてしまう。 「月が少しだけ満ちましたね。まだまだ爪の先のような三日月だけれど…」 香穂子の言葉に、吉羅は立ち止まって夜空を見上げた。 「確かにね。こうして満ちようとしている月は美しいね」 「そうですね」 吉羅の手がさらにギュッと握り締めてくる。 その強さに香穂子はほんのりとした幸せを感じていた。 何も話さなくても、こうやって手をしっかりと繋いでさえいれば、確実にお互いの想いは通じるのではないだろうかと、香穂子は思う。 吉羅とふたりで、こうしてのんびりとするだけで、柔らかな幸せを感じていた。 吉羅の家に戻り、お風呂に入った後で、何故かリビングでナイトキャップを楽しむ。 まるでふたりの日課になりそうだ。 香穂子は薄い梅酒、吉羅はストレート。 これも同じだ。 「ナイトキャップのお陰で、ぐっすりと眠れます」 「そうだね」 ふたりで笑顔で見つめ合う。 するとドキリとして、香穂子は胸がときめく余りに苦しくなるのを感じた。 ふたりで見つめ合う。 そのままごく自然に、唇が甘く重なり合った。 お互いの想いが近付くかのように。 |