*きみが奏でる物語*

13


 香穂子は気怠い幸せに包まれながら、ゆっくりと意識を取り戻した。
 目を開けると吉羅が優しく抱き締めてくれる。
 それが香穂子には嬉しくて仕方がなかった。
「…無理をさせてしまったようだね…。すまなかった…」
「…大丈夫です…」
 香穂子は声を掠らせて、何とか吉羅に呟く。
「…それは良かった」
 吉羅は低い声で言うと、香穂子の額に唇を寄せた。
「…君は私のものだ…。もう離す気はないから、そのつもりで…」
 吉羅の言葉に、香穂子はこころが暖かくなるのを感じる。
 ふわふわした幸せに、香穂子はうっとりと幸せな気分になった。
「…吉羅さん…」
 香穂子はその名前を呼ぶと、返事の代わりににっこりと微笑む。
「君はこれから…、私の部屋で眠るんだ…。君を離さない」
 吉羅の独占欲の激しさに、香穂子は幸せすらを感じながら、にっこりと頷いた。
 吉羅は香穂子を腕の中にすっぽりと包み込んでくれる。
 この上ない幸せな気分だった。

 翌朝、目が覚めると、吉羅がベッドに横たわっていた。
 それが嬉しい。
 こうして愛する男性に抱き締められて眠れるのは、なんて幸せなことなのだろうかと思う。
 香穂子がじっと吉羅を見つめていると、ゆっくりとその瞳が開かれた。
「…おはよう」
「…おはようございます…」
 香穂子はついうっとりと吉羅を見つめてしまう。
 本当になんて綺麗なのだろうかと思う。
 感動すらする。
 吉羅に顔を撫でられて、香穂子は蕩けてしまうほどの幸せを感じる。
 本当に大好きだ。
 大好きだからこそ、こうして肌を許したのだ。
「そろそろ起きなければならないね」
「はい」
 香穂子は躰を起こすと、吉羅から肌を隠すように衣服を身に着けた。
 吉羅は素早くベッドから出ると、直ぐに身仕度を整えて、バスルームへと行ってしまった。
 香穂子はその間に着替えを済ませて、先ずは自分の部屋へと向かった。
 ここで身支度を整えて、吉羅とは別のシャワールームへと向かった。

 ダイニングルームに行くと、昨日のことは嘘のようにピシリとした吉羅が席に着く。
 何時も通りに、吉羅は手巻き時計の時間を合わせ、バランスの取れた食事をする。
 香穂子はこんなにも余韻に浸っているというのに、吉羅は余韻なんて何処にも漂わせてはいなかった。
 食事を終えて、いつも通りに後片付けの手伝いをする。
 吉羅にとっては、もう余韻になんて浸っている場合ではないのだろう。
 これが一流ビジネスマンたる所以なのだろう。
 吉羅を見送った後、香穂子も出掛ける。
 外に出ると、新しい時間が紡ぎ出すような気がした。
 世界でたったひとりの大切なひとと出会えた奇蹟を、香穂子は感謝しながら大学に向かう。
 吉羅と出会わせてくれたヴァイオリンに感謝せずにはいられなかった。

 本当は今朝はもう少しゆっくりと香穂子を抱き締めていたかった。
 だが、仕事も立て込んでいて、そういうわけにはいかなかった。
 昨夜は人生最良の日と言っても良いほどに、とても充実したひとときだった。
 願わくば今日が休日であったら良かったのにと、吉羅は思わずにはいられない。
 そうすればずっと香穂子を抱き締めていられたのにと思う。
 吉羅は幸せな想いを胸に、新たなるビジネスの世界へと攻撃をかけていく。
 今日は最良の日。
 総てが上手く行く。

 香穂子はふわふわとした気分で、大学へと向かった。
 昨夜の開港記念パーティでの演奏は、とても評判が良かったと聞き、香穂子はホッとする。
 これも土浦のおかげだと思い、礼を言いに言った。
「土浦君。わざわざごめんね。昨日のお礼を言っておきたくて。本当にどうも有り難う」
 香穂子が深々と頭を下げると、土浦の爽やかな笑顔が戻ってきた。
「お前が一生懸命やったからだ。もっと自信を持て。俺も良い演奏の伴奏をさせて貰ったと、喜んでいるんだ」
 土浦の笑顔に、香穂子も思わず笑顔になってしまう。
「有り難う」
「ああ。こちらこそな」
 土浦は屈託ない笑顔を向けた後で、不意に表情が硬くなる。
「どうしたの…?」
「昨日、お前を厳しい目で見ていた男がいるだろう…? あいつはいったい何なんだ?」
「うん。私の芸術的な援助をしてくれるひとなんだよ。だから、ヴァイオリン演奏には誰よりも厳しいんだ。ダメ出しを食らうこともあるよ」
「…そうか…」
 土浦もまた苦虫を噛み潰したような顔になる。
「…あの男に辛いことをされたりしたら、いつでも言えよ。俺はお前の味方だから。いつでも…」
 土浦は本気で心配してくれている。
 それが香穂子には有り難くもある。
「有り難う。だけど大丈夫だよ。本当に心配をしてくれて有り難う」
 香穂子が笑顔で言うと、土浦は静かに頷いてくれた。
 だが心配は拭い去ってはいないようだ。
「有り難う、土浦君」
 本当に何もなくて幸せだから。
 香穂子は笑顔でそう伝えた。

 香穂子は家に帰り。またいつものようにヴァイオリンのレッスンに精を出す。
 吉羅の提供してくれた環境のお陰で、香穂子はヴァイオリンの技術をどんどん伸ばしていくことが出来る。
 それは本当に嬉しいことだ。
 吉羅には感謝をしてもしきれない。
 こうしていつまでも一緒にいられたら良いのにと、思わずにはいられなかった。

 今夜も吉羅にヴァイオリンを聴かせたい。
 以前よりもずっとずっと幸せな気分になるのは解っている。
 甘くて幸せな時間を味わうことが出来るだろう。
 吉羅は夕食時には帰ってこず、香穂子は練習をしながら待ち続けた。
 だが吉羅は一向に帰ってこず、結局、眠る時間になってしまった。
 仕事が忙しいのは解っている。
 だからこそ、ここは我が儘を言って、そばにいて欲しいなんて言えない。
 吉羅はビジネスの世界で成功しているからこそ、香穂子を援助してくれる“あしながおじさん”になってくれたのだから。
 香穂子は少し切ない気分を封印すると、ゆっくりと目を閉じた。
 素直に眠ろう。
 ただそれだけを心掛けた。

 吉羅は深夜になってようやく帰宅することが出来た。
 今日はとても忙しかったが、それだけ充実もしていた。
 これほどまでに充実していたのは、香穂子のお陰だろうと思う。
 自室に戻ると香穂子はいない。
 吉羅は香穂子がいつもいる部屋に向かうと、優しい寝息を立ててベッドに横たわっていた。
 吉羅は香穂子を抱き上げると自室のベッドへと運ぶ。
 香穂子をもう離すことは出来なかった。
 吉羅は眠る支度をしてベッドに潜り込み、香穂子を抱き締める。
 こうしているだけでも幸せをふつふつと感じる。
 誰にも渡さない。
 だからこそ自分の一番近い場所に、香穂子をずっと置いておきたかった。

 翌朝、目が覚めると、余り見慣れないベッドの上で眠っていた。
 よくよく目を開けると、そこには吉羅が眠っている。
「香穂子…、おはよう。目が覚めたかね?」
 吉羅に声を掛けられて、香穂子は笑顔で頷く。
「おはようございます…」
 香穂子がはにかんだ笑顔を向けると、吉羅は唇に触れるだけのキスをくれた。
 それが香穂子には嬉しくて、思わず微笑んでしまう。
「香穂子、これからは…、私の部屋で眠るように。良いね…?」
「はい…」
 まるで小さな子供に言い聞かせるように吉羅は言うと、香穂子を抱き寄せた。
 幸せが滲んでくる。
 吉羅に愛されている。
 吉羅への想いがこんなに早く成就するなんて、思ってもみなかった。
 この時はそう思えた。



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