*きみが奏でる物語*

14


 吉羅とはこれからも幸せに暮らせる。
 香穂子はそう信じて疑わない。
 吉羅とは毎日甘い時間を過ごしている。
 その幸せが永遠に続くと、信じていた。

 吉羅の帰りをつい待ってしまう。
 余り遅くまで起きていると、吉羅が怒るので程々にはしてはいるが、それでも香穂子は待っていたかった。
 日付が変わる頃、吉羅が帰ってくる。
 香穂子がパジャマ姿で出迎えると、吉羅はいつもよりも冷たい雰囲気を漂わせていた。
「…吉羅さん…、おかえりなさい」
「ただいま」
 吉羅はシンプルに言い、香穂子の横を素通りする。
 ほんのりと妖艶な香水の匂いがする。
 胸にナイフが刺さったような痛みに、香穂子は泣きそうになった。
 誰か他に女性がいるのだろうか。
 いいや、最初からその女性が本命で、香穂子はただの遊びに過ぎないのかもしれない。
 冷静に考えれば、それが当てはまる。
 それしか考えられない。
 きっと妖艶な香水の香りが似合う女性なのだろう。
 香穂子はそう思うと切なくなり、今夜は吉羅のそばに行くのは止めようと思った。
 何だか施しを受ける代わりに、躰を差し出しているような気分になる。
 それが事実なのかもしれない。
 今までは愛されていると思い、そんなことは考えたことなどなかった。
 香穂子はそのままいつも使っている部屋に向かい、眠ることにした。

 退屈なパーティの後だったから、香穂子の顔を見てホッとしたのは確かだった。
 寝る支度を終えて香穂子を待つが、一向にこちらに来ない。
 吉羅は香穂子を迎えに向かった。
「香穂子…、起きているのかね…」
 吉羅はノックをして香穂子がいることを確かめたが、全く反応がなかった。
「…香穂子…」
 名前を呼びながら部屋に入ると、香穂子がベッドで眠っているのが見える。
 吉羅は思わず香穂子を抱き上げる。
「…ん…っ」
 眠りはかなり浅いようで、香穂子はゆっくりと目を開いた。
「…吉羅さん…」
「…君の眠る場所は私のベッドのはずだ」
 吉羅はつい厳しく言うと、そのまま香穂子を自室へと運ぶ。
「…眠いので…、あちらのベッドで寝かせて下さい…。お願いします…」
「駄目だ」
 吉羅は香穂子の懇願を撥ね除けるように言うと、そのまま自室へと向かう。
「…ひとりで寝ます…」
 今日の香穂子はかたくなで、吉羅にたてをついてくる。
 こんなことはあまりしないから、吉羅は余計に驚いてしまった。
「…駄目だ」
 吉羅は厳しく香穂子に言うと、そのままベッドへと運ぶ。
「嫌です…! 今夜はひとりで…」
「君は私に逆らうのが好きだときているね。…それは私にとっては余り好ましいものではないよ…。解るね…?」
 吉羅は香穂子を厳しいまなざしで睨み付けると、そのまま噛み付くようなキスをする。
「…君は躰に刻み付けないと、解らないようだ…」
「…やっ…!」
 吉羅は香穂子が動けないように抱き締めると、そのまま激しく奪っていく。
 香穂子が離れていくなんて許せなかった。

 あんなにも激しい吉羅は初めてだった。
 激しく抱かれた後、香穂子はぐったりとするしかなかった。
 吉羅はまるでしなやかな獣のようだった。
 こんなにも激しい吉羅は知らないと思うほどだ。
 激しく所有の赤い花を刻みつけられて、今朝はストールで痕を隠さなければならなかった。
 吉羅はいつも通りに、何事もなかったかのようにクールで、香穂子の気持ちなどはよく解ってはいないのだろう。
 それが悔しかった。
 今夜もまた激しく抱かれるのだろうか。
 そこに愛が伴うのであれば、問題はない。
 むしろ激しくても構わない。
 そこに愛が伴わないのが、香穂子には辛いのだ。
 それを吉羅は解ってはいない。
 香穂子は、今夜も吉羅のベッドに行くつもりはなかった。
 だが吉羅は、香穂子を捕まえて離すことはなかった。
 吉羅にとっては自分は何なのだろうか。
 そんなことを香穂子はつい考えてしまった。
 吉羅とのほんのりとギクシャクした関係が、香穂子には辛かった。

 香穂子は大学のミニコンサートに出演することになった。
 メンバーは横浜開港記念パーティのメンバーが中心になっている。
 勿論、吉羅と出会ったパーティで一緒になったメンバーには選ばれていた。
 香穂子は、今は演奏だけに集中しようと思いながら、練習に打ち込むことにする。
 吉羅がいつもよりも早く帰ってきた日に、香穂子はコンサートのことを伝えることにした。
「吉羅さん、今度、大学のミニコンサートでヴァイオリンソロを弾くことになりました」
 香穂子が笑顔で吉羅に報告をすると、いつものように落ち着いた表情で頷いてくれた。
「…それは良かった。私も是非聴きに行かせて貰おう」
「有り難うございます」
 吉羅がコンサートに来てくれる。
 香穂子にとってはそれだけで嬉しい。
 吉羅が、今までのヴァイオリンレッスンの成果を聴いてくれるのは、本当に嬉しい。
「一生懸命にヴァイオリンを弾きますから、宜しくお願いします」
「ああ」
 吉羅は香穂子にフッと微笑みかけると、頬に手を伸ばしてくる。
「頑張りたまえ。君の活躍には期待している」
「はい、頑張ります!」
 香穂子は笑顔を浮かべて、吉羅を見つめる。
 こうして吉羅を見つめられることが、香穂子には何よりもの喜びだ。
 温かい吉羅。
 クールで落ち着いた雰囲気のある吉羅だが、香穂子の前では様々な顔を見せてくれる。
 温かくて優しいところ。
 冷たくてしょうがないところ。
 厳し過ぎると思うところ。
 だが、総て吉羅なのだ。
「吉羅さんに、良い演奏をお聴かせ出来るように頑張りますね」
「ああ」
 吉羅はさらりと言い、香穂子の頬を撫でる。
 官能的な指先の動きに、香穂子は息苦しくなるのを感じていた。

 香穂子を愛した後、自分の腕の中で愛らしく眠る香穂子を、吉羅はとても幸せな気分で見つめる。
 香穂子の“頑張ります”は世界一だということを、本人は気付いているのだろうか。
 香穂子がそう言う度に守ってやりたくなる。
 手を貸したくなる。
 吉羅は香穂子が愛しくてしょうがなくて、更に強く抱き締めた。
 誰にもやらない。
 一生そばに置く。
 香穂子は自分だけのものだ。
 吉羅はこんなにも誰かに執着するなんてことは、今までなかったのにと苦笑いをするしかなかった。

 吉羅の気持ちはどうなのだろうか。
 この上なく優しかったり、この上なく冷たかったりする。
 最近はそれが酷い。
 優しくされるのはとても幸せだが、冷たくされると、息苦しくなるほどに辛くなる。
 今や吉羅が中心になって、香穂子の世界は動いてしまっていた。
 吉羅さえいればお天気で、いなければ嵐になってしまう。
 そんな生活だ。
 あれから吉羅は妖艶な香水の匂いを漂わせて帰って来ることが増えている。
 それでも、誰の香水の匂いであるかを、香穂子は訊くことが出来なかった。
 そのまま求められるままに吉羅と肌を重ねる。
 肌を重ねなければ、捨てられてしまうような気がして、香穂子はたまらなく切なかった。
 ただ吉羅に喜んで貰いたい。
 それだけでヴァイオリンを奏でているような気がする。
 本来の目標を見失っているような気がしてならなかった。

 ヴァイオリンの練習を今日も頑張る。
 より良いものを作りたい。
 より良いものを吉羅に聴かせたい。
 香穂子はただそれだけで、コンサートの楽曲を練習し、ヴァイオリンを弾いている。
 これではいけないと思っているのに、改善することが出来なかった。



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