*きみが奏でる物語*

15


 香穂子のヴァイオリンを聴きに来た金澤がかなり渋い顔をした。
 今まで金澤がこのような顔をしたことはなかった。
「日野、お前、ひとりよがりになってはいないか?」
「ひとりよがり…」
 身に覚えがあるがゆえに、香穂子はドキリとする。
 ただ吉羅のためだけに、吉羅に褒められたいがために弾いている。
 問題の核心を金澤に突かれてしまい、香穂子は言葉を返せなかった。
「…お前さんのヴァイオリンの良さは、大きく慈愛溢れる音だ。人の心に浸透する。それを失ってはいないか…?」
 金澤に指摘をされて、香穂子はかなりショックだった。
 吉羅に溺れるが余りに、そのことしか考えられなくなってしまっていたのだ。
「…解りました…。ご指摘有り難うございます。金澤先生に指摘されたところを、何とか直せるように頑張りますね」
「ああ。そうしてくれ」
 香穂子は盲目になっていた自分を落ち着かせるために、深呼吸をしながら再びヴァイオリンを奏でる。
 自分らしさを失ってしまっていたのは確かだ。
 吉羅のことばかりを考えていたのも。
 香穂子は吉羅に褒めて貰いたいという感情を捨て去ると、ただその想いだけをヴァイオリンの音色に乗せた。
 まるで恋心を浄化させるかのように。
 すると今度は、金澤も頷いてくれた。
「これなら構わない。先ほどのものに比べると、格段と良くなっている」
「有り難うございます」
 香穂子は金澤の言葉にホッとしながらも、自分に反省をする。
 もってヴァイオリンを真剣に取り組まなければならない。
 それが出来なければ、始まらないのだから。

 ミニコンサートの当日、誰もが華やかな気分でスタンバイをしていた。
「さっきさ、吉羅暁彦さんを見たのよ!」
「誰かを見に来られたのかしら。クラシックに造形が深いってお聞きしているから、純粋に聴きに来られたのよ! 素敵ね」
 また、みんなが大騒ぎになっている。
 香穂子は吉羅が来てくれているのが嬉しくて、思わず笑顔になった。
「誰を聴きに来ているのかしら!?」
「余り、期待してはダメよ。だってあの綺麗な女性と一緒だったもの!」
 その一言に香穂子は胸を突き刺されたような気分になる。
 心から血が噴き出していくのを感じた。
「ああ、あの吉羅さんの恋人だとか婚約者だとかいう女性でしょう? 知っているわ。幼馴染みだって聴いたけれど、結婚されるのかしら!」
「そうかもよ」
 誰もが噂話に花を咲かせている。
 以前の香穂子ならば笑顔で聞き流せたかもしれないが、今はそう出来なかった。
 誰よりも愛する吉羅の、しかも結婚に関する噂話だったからだ。
「…やっぱり、吉羅さんはセレブ中のセレブだものねえ。その世界に相応しいひとと結婚するわよね」
「そうだね」
 誰もが住む世界が違う男性だと結論付けてしまっている。
 それが香穂子には余りにも切なくてしょうがなかった。
 住む世界が違うことぐらいは、最初から解っている。
 だが、恋心を諦められない自分がいつもいた。
 吉羅といつか本当の意味で結ばれるのではないかと、思っていた。
 だがそれはただの夢想に過ぎなかったのだ。
 吉羅は吉羅の相応しいひとと結ばれる。
 それだけだ。
 解りきっていたことなのだ。
 なのに切なかった。
 香穂子は切ない想いを振り切るように深呼吸をすると、ヴァイオリンに集中する。
 夢を見過ぎていたのかもしれない。
 吉羅は結ばれることのない相手であったのに、夢を見過ぎていたのだ。
 香穂子は涙が瞳の奥深くに滲むのを感じながら、ただヴァイオリンだけに集中した。

 どうしてもと言われて、吉羅は幼馴染みの女性を同伴してきた。
 本当はひとりで聴きに来て、そのまま香穂子を連れて帰りたかったのに。
 それが切なくてたまらない。
 吉羅はしょうがないと思いながら、溜め息を吐くしかなかった。
「大学生といってもかなりレベルが高いと聴きますから、とても楽しみなんです」
「そうだね。確かにレベルは高いね」
 吉羅が柔らかく言うと、幼馴染みは微笑む。
 申し分ない女性だ。
 だが、それだけだ。
 吉羅が心から惹かれることはなかった。
 それがどうしてかは解らないが。
 吉羅はただ香穂子を待つ。
 その素晴らしいヴァイオリン演奏と、素晴らしく美しい姿を見るために。

「次、日野香穂子さん」
「はい」
 香穂子は背筋を伸ばすと、静かにステージに立った。
 客席には吉羅と美しいひとがいる。
 香穂子は総てから目を塞ぐように目を閉じると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 吉羅への想いを昇華させるために。
 香穂子はただヴァイオリンを奏でる。
 これからはヴァイオリンと共に生きていくのだ。
 ヴァイオリン以外は何もいらないから。
 吉羅への想いは断ち切らなければならない。
 断ち切らなければ、きっと傷はもう少し深いものになってしまうだろうから。
 香穂子はヴァイオリンの音色に万感の想いを込めて奏でる。
 胸が切ないぐらいに痛かった。

 今日の香穂子の演奏はこの上なく素晴らしいが、何故だか切ない気分にさせられてしまった。
 苦しくてしょうがない。
 息苦しくどうしようもない音色だ。
 なのに素晴らしい。
 それは香穂子だからなのだろう。
 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、大きな拍手が沸き起こった。
 誰もが香穂子のヴァイオリンの素晴らしさを感じているのだろう。
 それは素晴らしい。
 だが、吉羅にとっては切ないものだった。

 大きな拍手を受けて、香穂子は戸惑っていた。
 この演奏がどうして良いのかも解らない。
 ただ拍手をして頂いた観客に感謝しかない。
 香穂子は深々と頭を下げて、拍手の礼を言った。
 吉羅も恋人も拍手をしてくれている。
 有り難い。
 そして恋人には、ごめんなさいと言うしかない。
 もうあなたの吉羅は取らないからと、心の中で言うしかなかった。
 香穂子は静かにステージから去る。
 また寮に入れるように、奨学金が受けられるように相談をしなければならない。
 金澤に言えば勘繰られるだろうから、別の教員に言うしかない。
 香穂子は深呼吸をすると、後片付けを始めた。
 コンサートが終わるとアナウンスが入る。
 これで香穂子の仕事はおしまいだ。
 香穂子は深々と共演者に挨拶をした。
「今日は有り難う」
「日野さんの演奏だけれど、とても良かったですよ」
「有り難うございます」
 誰もが温かく接してくれたので、香穂子は嬉しかった。

 着替えてとぼとぼと家に帰る。
 吉羅が迎えに来てくれることはなかった。
 期待していなかったと言えば嘘になる。
 だが心のどこかでそれはないということも、解っていた。
 吉羅がわざわざ迎えにきてくれることなんてない。大切な女性と一緒なのだから。

 香穂子は吉羅家に戻ると、こっそりと荷物をまとめ始める。
 吉羅には解らないように、ある日こっそりといなくなるのだ。
 香穂子は片付け終わると、ひとりで夕食を取る。
 吉羅はやはり帰っては来ない。
 恐らくは女性と一緒なのだろう。
 本命がいるのだから、スッパリと諦めなければならない。
 吉羅とは結ばれない運命なのだから。
 香穂子はお風呂に入った後、ひとりのベッドで眠ることにした。
 吉羅のベッドに入るのは、もう止めたほうが良いと思った。

 吉羅は幼馴染みを送った後、帰宅する。
 随分と遅くなってしまった。
 直ぐに自室に入ったが、香穂子はいない。
 またあのベッドに眠っているのだろう。
 部屋に入ると、天使のように眠る香穂子がいた。



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