*きみが奏でる物語*

16


 朝起きると、吉羅のベッドだった。
 吉羅に抱き締められて眠っている。
 嬉しいのに、それよりも切なさが大きかった。
「…吉羅さん…」
 香穂子が腕の中から逃れようとすると、吉羅に思い切り抱き締められた。
「き、吉羅さん…!?」
 吉羅は目をゆっくりと開けると、香穂子を見る。
「私は君を離さないから、そのつもりで」
 キッパリと言われて、香穂子は泣きそうになる。
 離さないでくれるのは嬉しい。
 だが、それは後ほどかなり辛いことになってしまうだろうと、香穂子は思わずにはいられない。
 ずっとずっと吉羅の二番手の女でいつづけるのだ。
 それはかなり辛い。
 それに「愛している」と言われたことがない以上、二番手でいることも出来ないかもしれないのだ。
 それどころかもう二番手でもないのかもしれない。
「…起きたいんです…」
「…まだ早い…」
 傍らの時計は、確かに休日にしてはかなり早い時間をさしている。
「起きたいんです…」
 香穂子が懇願をするように言っても、吉羅は離そうとはしなかった。
「…今日は休みだからね。私はこうしていたいんだよ…」
 吉羅の柔らかな愛を感じる。
 だが、それは保護者のような愛ではないかと、思わずにはいられなかった。
 ずっとこうしていたい。
 だがこうしていてはいけない。
 香穂子は痛い想いを抱きながら、吉羅を見た。
「…どうしたのかね?」
「何でもありません…。やっぱり起きますね」
 香穂子はフッと笑って、何でもないようにベッドから起き上がる。
「…理由は何だね?」
「理由はありません。ただ起き上がりたいだけです…」
 香穂子はそれでも起き上がろうとしたが、吉羅が拘束を解いてはくれなかった。
「…吉羅さん…っ!」
 吉羅の抱擁が激しく食い込んでくるのが解る。
 息が苦しくなる。
「…あ、あのっ!?」
「きちんと言ってくれるまでは、君を話さない。君にはきちんと言い聞かせなければならない」
 吉羅は香穂子を組み敷くと、そのまま激しく抱き締めてくる。
 息が出来なくてどうすることも出来ない。
 吉羅はそのまま香穂子のパジャマを脱がせると、激しく愛し始めた。
 逆らえない。
 いつもよりも激しい情熱に、香穂子は溺れるしかなかった。

 香穂子はひとり吉羅家のテラスルームで紅茶を飲む。
 吉羅はといえば、シャワーを浴びて朝食を済ませて、書斎に籠って仕事をしている。
「香穂子ちゃん、余り顔色が良くないようだよ」
「…大丈夫です…」
 香穂子は家政婦に柔らかな笑顔を浮かべた後、ひとりで溜め息を吐いた。
 吉羅にとって自分は何なのだろうか。
 育てたい芸術家。
 パトロンと芸術家の関係だけなのかもしれない。
 パトロンと芸術家ならば、代価として躰を差し出すのは当然だと思っているのだろうか。
 そこには愛はない。
 あるのは欲望だけだ。
 香穂子はそんな理由で吉羅に抱かれているのではない。
 ただ純粋に吉羅が好きだからだ。
 それだけで抱かれたのだ。
 だが、吉羅にはそれはないのかもしれない。
 別に愛する女性がいるようだからだ。
 香穂子はボロボロになってしまう前に、吉羅から離れなければならないと考えていた。
「…日野君…、どうした顔色が悪いようだが、今日は休んだほうが良いのではないかね…?」
「…大丈夫です。疲れていますから、少しだけのんびりしたいだけなんです…」
「…余り無理をするな。君は何かあったとしても、直ぐに“大丈夫です”と言う。君は本当は大丈夫ではないだろう?」
 吉羅のストレートで厳しい言葉に、香穂子は言葉を詰まらせる。
「…吉羅さん…、私…、本当に大丈夫ですから…」
「私は今から出掛けるが、君はゆっくりと休みなさい」
「…はい、そうします」
 吉羅が出掛ける。
 恐らくはあの女性のところに行くのだろう。
 そう考えるだけで、また気分が落ち込んでしまった。
「…部屋に戻って休むことにします」
「ああ」
 香穂子はこれ以上は一緒にいるのが辛くて、立ち上がって自室へと向かった。
 ベッドに横たわると、香穂子は溜め息を吐く。
 そのままただ目を閉じていた。

「日野、最近、元気がないようだな。良かったら、気分転換にクラシックコンサートにでも行かないか?」
「あ! 有り難う! 嬉しいよ!」
 土浦はさり気なくチケットを渡してくれ、香穂子を切なそうに見つめてくる。
「日野、最近、お前、本当に辛そうだが、何かあったのか?」
「何でもないよ。本当に大丈夫なんだ」
 香穂子は努めて笑顔になると、土浦を見た。
「だったら良いけれどな。コンサート、楽しもうぜ」
「うん!」
 香穂子は久し振りに明るい気分になるのを感じる。
 コンサートで気分転換が出来ればと、思わずにはいられなかった。

 吉羅にコンサートに友人と行くと申し出ると、許可をしてくれた。
 吉羅もその日は出掛ける用があるのだという。
 香穂子は気分転換にクラシックコンサートに行けることを、とても楽しみにしていた。
 吉羅は恐らくはあの女性とコンサートに行くのだろう。
 最近、妖艶な香水の匂いをほんのりとさせることが多かったからだ。
 吉羅も恐らくは彼女と将来のことを見越して、よくデートをしているのだろう。
 そうなれば、香穂子は御役御免だ。
 この家からも出なければならないだろう。
 再び寮に住めるように手続きをしなければならないと、香穂子はぼんやりと考えていた。

 コンサートの当日、香穂子はほんのりとお洒落をした。
 折角のクラシックコンサートだから、きちんとして出掛けたかった。
「土浦君、お待たせ!」
「ああ」
 待ち合わせの場所に行くと、土浦は相変わらず爽やかな温かさを香穂子にくれる。
 ホッとする雰囲気だ。
「今日のコンサートを本当に楽しみにしていたんだよ」
「俺もな」
 香穂子は本当に弾む気分で笑顔になる。
 だが、次の瞬間、香穂子は息を呑んだ。
 吉羅が、大学のコンサートにも連れてきていた女性と一緒にいた。
 吉羅もこのコンサートに来ていたのだ。
 心臓が止まってしまうのではないかと思うほどの衝撃を、香穂子は感じる。
 どうして良いかが解らない。
 ただ、吉羅の視線から逃れなければならない。
 土浦の陰に隠れてしまえば解らないだろう。
 香穂子は瞬時に隠れた。
「土浦君、会場に入ろうか」
「ああ。あ、あのさ、日野」
「何?」
 土浦が困惑したような表情を向けてくる。
「…何でもない。行こうぜ…」
「うん」
 香穂子は土浦が何を言いたかったのか、不思議に思いながら、会場へと入った。
 席に着くと、意外なまでに知り合いが沢山コンサートに来ているのに驚く。
 学内コンサートで一緒だった者たちは、ほぼ全員が来ていた。
「…やっぱり話題のコンサートなんだね。知り合いをちらほらと見掛けるね…」
「そうだな」
 ふと視界に吉羅暁彦と恋人が入ってくる。
 一番良い席に座っているところは、セレブリティなのだろう。
 やはり住む世界が違う男性なのだと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 吉羅が一瞬、こちらを見たような気がした。
 香穂子は何の疚しいことなどないというのに、つい視線を逸らせてしまう。
 吉羅とは、パトロンと芸術家の関係だけで、恋人だとか、婚姻だとかの関係はない。
 だから何も後ろ暗いことはしていないのだから。
 香穂子は自分に言い聞かせて、音楽に集中することにした。

 コンサートの後、会場を出た時だった。
 香穂子はいきなり強く腕を捕まれて、思わず顔をあげる。
 そこには氷のように恐ろしい顔をした吉羅がいた。



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