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「金澤先生…」 香穂子は静かにその名前を呼ぶ。 「何だか気分が悪そうだ。余り無理をしてはいけない」 「有り難うございます」 香穂子がほんのりと微笑むと、金澤は余計に心配そうな顔をした。 「余り無理をするのは良くないからな。きをつけろ」 「有り難うございます」 香穂子は笑顔で言うと、何でもないように振る舞う。 金澤はそれでも訝しがるように見ていた。 不意に、金澤がじっと首筋の周りを見ている。 香穂子は隠し立ては出来ないと思いながら、堂々としていることにした。 「…日野…何かあったのか…?」 「…何もありませんよ…。本当に…」 香穂子は早く逃れたいと思いながら、金澤に笑顔を向けることでしか、誤魔化すことは出来なかった。 「日野、お前さん…寮に帰る手続きと、奨学金の再申請を行なっているらしいな」 「…はい」 嘘を吐いてもしょうがないから、香穂子は素直に認めた。 「吉羅と何かあったのか?」 金澤の言葉に、香穂子はビクリとする。 正確には何かあったわけではないのだ。 香穂子のこころが切ないというだけなのだ。 「…本当に何もありません。…あ、私…、授業があるので行きますね」 香穂子はわざと時計を見ると、逃げるように立ち去る。 これ以上は金澤に詮索をされたくはなかった。 金澤から離れて、香穂子はホッと息を吐く。 気怠い気持ち悪さが襲ってきて、香穂子は暫くはじっとしていなければならなかった。 「…最近、気分が乗らないからかなあ…。余り体調が良くないな…」 吉羅への想いの切なさに、香穂子は躰までおかしくなっているのを感じる。 「…早く切替えをしなくちゃならないな…」 吉羅への想いを早く忘れて、ヴァイオリンだけに集中したい。 だが、そうはいかない。 香穂子が忘れたいと思っても、吉羅は毎晩のように優しく激しく香穂子を抱くのだ。 その度に、吉羅を愛していることを思い知らされた。 吉羅は本当に狡い。 他に愛している女性がいるというのに、愛を重ねてくる。 それが今は一番辛かった。 吉羅は、金澤に呼び出されて、元町近くのバールに来ていた。 「…ちょっと…お前さんに確認しておかなければならなくてな」 「何を…ですか…?」 「日野香穂子のことだ」 金澤の予想通りの言葉と厳しい声に、吉羅は唇を強く結んだ。 「…お前さん、日野を自邸に住まわせているようだな。それは構わん。あいつも分別つかない子供ではないからな。そのあたりは解るだろう。…だが、最近の日野は、体調が悪いようだし、何処か上の空だ。…それにお前さんの…」 金澤はそこで一瞬言葉を詰まらせる。 何か言い辛いことのようだ。 「…何ですか…? 金澤さん」 「あいつがお前さんの“愛人”ではないかという憶測が、学院内で飛んでいる。先日のコンサートの後、お前さんが日野を連れて車に乗り込んだのを見ている学生が、沢山いたみたいだからな…。その噂で日野は相当苦労をしているようだけれどな…」 吉羅は目を閉じる。 いつもならば絶対に起こすことがないミスだ。 いつもならばかなり理性的でいられるのに、香穂子が絡むとそう言ってはいられなくなる。 あの日も嫉妬に塗れて、自分を見失っていたのだから。 「…日野も辛いだろうな…。最近、ずっと顔色が悪いし…、それに…、再び寮に入る手続きと、奨学金の 手続きに入っている。あいつはお前さんから離れる覚悟かもしれないな…」 金澤の言葉が、吉羅の心を抉る。 香穂子がそばからいなくなる。 そんなことは考えられないし、考えたくもない。 何かあるのであれば、香穂子に原因を訊くだけだ。 吉羅は気持ちが悪くなるぐらいの不安を感じ、唇を更にきつく閉じた。 「…吉羅…、日野に何かをしているのなら、俺はお前さんを許さん。あいつは純粋な女だ。あいつを傷つけるようなことはするな」 金澤はキッパリと言い切る。 恐らく感情は教員という枠を超えてしまっているのだろう。 「…お前さん…、本当に日野を“愛人”のように囲っていやがるのか? …あいつを孕ましたりするなよ…」 金澤は太い釘を刺してくる。 香穂子を一生離さないつもりだ。 金澤に何と言われようと。 香穂子を何処にも行かせない。 吉羅はそれだけは強く思った。 「…日野君の体調は、こちらできちんと対処します。彼女に色々と訊いて、最善の努力をするつもりです。もし、彼女が私の子どもを身籠もっても、きちんと誠実な形を取ります。お気遣いを感謝します」 吉羅は淡々と言うと、ミネラルウォーターに口をつける。 香穂子に気持ちなどをきちんと訊くことにした。 最近、ヴァイオリン専攻では、“香穂子が実業家吉羅暁彦の愛人”であるという噂がかなり広まっている。 後ろ暗いことをしている。 肉体で音楽への道の足掛かりを掴もうとしていると、あちこちで言われている。 香穂子にはそれがかなり辛い。 一緒に住んではいるし、確かに芸術家とパトロンのよくある関係ではあるかもしれない。 しかも躰で愛し合ってもいる。 だが、肉体を武器にしたことなど、香穂子には一度もない。 ただ愛しているからこそ、吉羅にこの身を捧げたのだ。 何だかいやらしいことをしているような目で見られてしまい、香穂子にはかなり辛かった。 「こんなにも最近抜擢が多いのは、吉羅さんと特別なご関係にあるからじゃないかしら? 吉羅さんの力で、色々とチャンスを頂いているんじゃないの?」 このような陰口を叩かれるのは、正直言って辛かった。 そのこともあるかもしれない。 こんなに体調が悪いのは。 もう心も躰もギリギリまで擦り切れているのかもしれない。 吉羅から離れてリセットをかけよう。 もうそれしか方法はないのかもしれない。 香穂子は胃のむかつきを感じながら、暫くの間、横になっていた。 すると、吉羅が帰ってくるのが解る。 だが、迎えに行くことが出来なかった。 香穂子が迎えに来ない。 もういなくなってしまったのだろうか。 吉羅はそれが不安になり、慌てて香穂子が普段使っている部屋に向かった。 「香穂子、どうしたのかね!? 気分が悪いのかね?」 吉羅がドア越しに声を掛けたかけると、ゆっくりとドアが開いた。 「…吉羅さん…」 姿を現した香穂子は、ひどく心許無くて、まるで幼い子供のような気分になった。 顔色が悪くて、今にも倒れそうに見える。 吉羅は思わず香穂子を優しく抱き寄せた。 「…気分が悪いということはないかね…?」 「…大丈夫だと思います…。波があるんです…。だけど平気です。大丈夫ですから心配しないで下さい」 香穂子が微笑むと透明感があり、とても美しく見える。 吉羅はその美しさに思わず吸い寄せられていた。 本当に香穂子は美しい。 吉羅は更に抱き締めた。 「…ゆっくりと休むと良い…。最近、疲れているのだろう。明日はゆっくり休みなさい。君には休息が必要だ」 「有り難うございます…」 香穂子の笑顔はまるで桜のように輝いていて、吉羅は思わず息を呑んだ。 今までで一番綺麗だ。 吉羅は香穂子を抱き上げると自室に連れて行く。 「私が看病したい」 「眠れば大丈夫ですから…」 香穂子がやんわりと言うが、吉羅はそれを認めることが出来ない。 「…看病というよりは、私がそばにいたいんだよ…」 「吉羅さん…」 香穂子はフッと笑みを浮かべると、素直に吉羅にその身を預けてくれた。 「…明日、病院に行こうか」 「大袈裟です」 香穂子は笑ったが、吉羅は連れて行くことにした。 |