*きみが奏でる物語*

18


「金澤先生…」
 香穂子は静かにその名前を呼ぶ。
「何だか気分が悪そうだ。余り無理をしてはいけない」
「有り難うございます」
 香穂子がほんのりと微笑むと、金澤は余計に心配そうな顔をした。
「余り無理をするのは良くないからな。きをつけろ」
「有り難うございます」
 香穂子は笑顔で言うと、何でもないように振る舞う。
 金澤はそれでも訝しがるように見ていた。
 不意に、金澤がじっと首筋の周りを見ている。
 香穂子は隠し立ては出来ないと思いながら、堂々としていることにした。
「…日野…何かあったのか…?」
「…何もありませんよ…。本当に…」
 香穂子は早く逃れたいと思いながら、金澤に笑顔を向けることでしか、誤魔化すことは出来なかった。
「日野、お前さん…寮に帰る手続きと、奨学金の再申請を行なっているらしいな」
「…はい」
 嘘を吐いてもしょうがないから、香穂子は素直に認めた。
「吉羅と何かあったのか?」
 金澤の言葉に、香穂子はビクリとする。
 正確には何かあったわけではないのだ。
 香穂子のこころが切ないというだけなのだ。
「…本当に何もありません。…あ、私…、授業があるので行きますね」
 香穂子はわざと時計を見ると、逃げるように立ち去る。
 これ以上は金澤に詮索をされたくはなかった。
 金澤から離れて、香穂子はホッと息を吐く。
 気怠い気持ち悪さが襲ってきて、香穂子は暫くはじっとしていなければならなかった。
「…最近、気分が乗らないからかなあ…。余り体調が良くないな…」
 吉羅への想いの切なさに、香穂子は躰までおかしくなっているのを感じる。
「…早く切替えをしなくちゃならないな…」
 吉羅への想いを早く忘れて、ヴァイオリンだけに集中したい。
 だが、そうはいかない。
 香穂子が忘れたいと思っても、吉羅は毎晩のように優しく激しく香穂子を抱くのだ。
 その度に、吉羅を愛していることを思い知らされた。
 吉羅は本当に狡い。
 他に愛している女性がいるというのに、愛を重ねてくる。
 それが今は一番辛かった。

 吉羅は、金澤に呼び出されて、元町近くのバールに来ていた。
「…ちょっと…お前さんに確認しておかなければならなくてな」
「何を…ですか…?」
「日野香穂子のことだ」
 金澤の予想通りの言葉と厳しい声に、吉羅は唇を強く結んだ。
「…お前さん、日野を自邸に住まわせているようだな。それは構わん。あいつも分別つかない子供ではないからな。そのあたりは解るだろう。…だが、最近の日野は、体調が悪いようだし、何処か上の空だ。…それにお前さんの…」
 金澤はそこで一瞬言葉を詰まらせる。
 何か言い辛いことのようだ。
「…何ですか…? 金澤さん」
「あいつがお前さんの“愛人”ではないかという憶測が、学院内で飛んでいる。先日のコンサートの後、お前さんが日野を連れて車に乗り込んだのを見ている学生が、沢山いたみたいだからな…。その噂で日野は相当苦労をしているようだけれどな…」
 吉羅は目を閉じる。
 いつもならば絶対に起こすことがないミスだ。
 いつもならばかなり理性的でいられるのに、香穂子が絡むとそう言ってはいられなくなる。
 あの日も嫉妬に塗れて、自分を見失っていたのだから。
「…日野も辛いだろうな…。最近、ずっと顔色が悪いし…、それに…、再び寮に入る手続きと、奨学金の 手続きに入っている。あいつはお前さんから離れる覚悟かもしれないな…」
 金澤の言葉が、吉羅の心を抉る。
 香穂子がそばからいなくなる。
 そんなことは考えられないし、考えたくもない。
 何かあるのであれば、香穂子に原因を訊くだけだ。
 吉羅は気持ちが悪くなるぐらいの不安を感じ、唇を更にきつく閉じた。
「…吉羅…、日野に何かをしているのなら、俺はお前さんを許さん。あいつは純粋な女だ。あいつを傷つけるようなことはするな」
 金澤はキッパリと言い切る。
 恐らく感情は教員という枠を超えてしまっているのだろう。
「…お前さん…、本当に日野を“愛人”のように囲っていやがるのか? …あいつを孕ましたりするなよ…」
 金澤は太い釘を刺してくる。
 香穂子を一生離さないつもりだ。
 金澤に何と言われようと。
 香穂子を何処にも行かせない。
 吉羅はそれだけは強く思った。
「…日野君の体調は、こちらできちんと対処します。彼女に色々と訊いて、最善の努力をするつもりです。もし、彼女が私の子どもを身籠もっても、きちんと誠実な形を取ります。お気遣いを感謝します」
 吉羅は淡々と言うと、ミネラルウォーターに口をつける。
 香穂子に気持ちなどをきちんと訊くことにした。

 最近、ヴァイオリン専攻では、“香穂子が実業家吉羅暁彦の愛人”であるという噂がかなり広まっている。
 後ろ暗いことをしている。
 肉体で音楽への道の足掛かりを掴もうとしていると、あちこちで言われている。
 香穂子にはそれがかなり辛い。
 一緒に住んではいるし、確かに芸術家とパトロンのよくある関係ではあるかもしれない。
 しかも躰で愛し合ってもいる。
 だが、肉体を武器にしたことなど、香穂子には一度もない。
 ただ愛しているからこそ、吉羅にこの身を捧げたのだ。
 何だかいやらしいことをしているような目で見られてしまい、香穂子にはかなり辛かった。
「こんなにも最近抜擢が多いのは、吉羅さんと特別なご関係にあるからじゃないかしら? 吉羅さんの力で、色々とチャンスを頂いているんじゃないの?」
 このような陰口を叩かれるのは、正直言って辛かった。
 そのこともあるかもしれない。
 こんなに体調が悪いのは。
 もう心も躰もギリギリまで擦り切れているのかもしれない。
 吉羅から離れてリセットをかけよう。
 もうそれしか方法はないのかもしれない。
 香穂子は胃のむかつきを感じながら、暫くの間、横になっていた。
 すると、吉羅が帰ってくるのが解る。
 だが、迎えに行くことが出来なかった。

 香穂子が迎えに来ない。
 もういなくなってしまったのだろうか。
 吉羅はそれが不安になり、慌てて香穂子が普段使っている部屋に向かった。
「香穂子、どうしたのかね!? 気分が悪いのかね?」
 吉羅がドア越しに声を掛けたかけると、ゆっくりとドアが開いた。
「…吉羅さん…」
 姿を現した香穂子は、ひどく心許無くて、まるで幼い子供のような気分になった。
 顔色が悪くて、今にも倒れそうに見える。
 吉羅は思わず香穂子を優しく抱き寄せた。
「…気分が悪いということはないかね…?」
「…大丈夫だと思います…。波があるんです…。だけど平気です。大丈夫ですから心配しないで下さい」
 香穂子が微笑むと透明感があり、とても美しく見える。
 吉羅はその美しさに思わず吸い寄せられていた。
 本当に香穂子は美しい。
 吉羅は更に抱き締めた。
「…ゆっくりと休むと良い…。最近、疲れているのだろう。明日はゆっくり休みなさい。君には休息が必要だ」
「有り難うございます…」
 香穂子の笑顔はまるで桜のように輝いていて、吉羅は思わず息を呑んだ。
 今までで一番綺麗だ。
 吉羅は香穂子を抱き上げると自室に連れて行く。
「私が看病したい」
「眠れば大丈夫ですから…」
 香穂子がやんわりと言うが、吉羅はそれを認めることが出来ない。
「…看病というよりは、私がそばにいたいんだよ…」
「吉羅さん…」
 香穂子はフッと笑みを浮かべると、素直に吉羅にその身を預けてくれた。
「…明日、病院に行こうか」
「大袈裟です」
 香穂子は笑ったが、吉羅は連れて行くことにした。



Back Top Next