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今夜は香穂子を守るように眠った。 総ての悪意から香穂子を守りたかったからだ。 吉羅は香穂子を守るためなら何でもしようと思う。 香穂子が愛人だとか後ろ暗い呼び方をされているならば、そのようなことから守ってやりたい。 悪意から守ってやりたかった。 香穂子が目覚めたのが解り、吉羅は香穂子の顔を覗き込んだ。 「…気分はどうかね?朝食を取ったら、病院に行こうか…?」 「…吉羅さん…、大丈夫ですから…」 「まだ顔色が悪い…」 吉羅は香穂子の頬を撫でると、ゆっくりと瞳を覗き込む。 「かなり気分は良くなりましたから、心配されないで下さい」 「…だが病院には連れて行くよ」 香穂子はやんわりと微笑むと、「重病ではありませんから」と、静かに言った。 重病ではないと言われても、香穂子が心配でしょうがない。 吉羅は香穂子に有無言わせない視線を向けると、キッパリと言う。 「ヴァイオリンを弾くにも躰が資本になる。しっかり躰を治すんだ」 「…解りました…」 香穂子が静かに言うと、吉羅はそっと抱き寄せた。 いつものように茶粥で朝食を取る。 茶粥がちょうど良いのか、香穂子はホッとしながら食事をしていた。 不意に吉羅の携帯電話が鳴り響き、香穂子はビクリとする。 また、あの妖艶な香水が似合う美しい女性なのだろうか。 吉羅はスマートに電話に出た。 「…吉羅です…。あ、君か…。いつも有り難う…。今夜は申し訳ないが用があるんだよ…」 吉羅の言葉を聞くと、香穂子は切なくなる。 また、あのひとなのだろう。 恐らくはいつまで経ってもこのような状況が続いているのだろう。 それならば早く断ち切ってしまったほうが良い。 吉羅は電話を終えて、再び席に着いた。 香穂子は吉羅を見つめる。 出て行くことを言うのは、これがチャンスなのかもしれない。 「吉羅さん…、あの…、私…、ここを出て行こうと思います…。やはり寮で暮らします。今まで有り難うございました」 香穂子は深々と頭を下げる。 すると、吉羅は厳しい表情になった。 「体調が悪い君を離すわけにはいかない。君はここにいるんだ」 吉羅は認めないとばかりに、香穂子を見つめた。 「援助して頂いた分はお返しをします。…働いて何とか返せたらと思います…」 香穂子が震える声で呟いても、吉羅は許してくれそうになかった。 「…吉羅さん…、元の生活に戻りたいだけなんです…。私は…」 「…駄目だ。とにかく、今は気分の悪さを解消することが大事だ。情緒不安定なのかもしれないね。とにかく、君は休むことが必要なのかもしれないね…」 「…はい…」 だが心は決まっている。 この切ない気分を解消したいだけなのだ。 気分の悪さを解消させてから、もう一度申し出ることにした。 吉羅に付き添われて、香穂子は病院に向かった。 先ずは血液検査と尿検査を受ける。 その後に診察室に呼ばれた。 吉羅も一緒に入ってくれ、香穂子に付き添ってくれる。 「日野さん、気持ちの悪さは悪阻ですよ。おめでとうございます、三か月ですよ」 医師からの言葉に、香穂子は思わず息を呑んだ。 そんなことがあるなんて思ってもみなかった。 まさか妊娠しているなんて。 吉羅の子ども。 恐らくは、吉羅に乱暴に抱かれた時に授かったのだろう。 それ以外には考えられない。 あの時から、吉羅とは直接に愛し合うことになったのだから。 吉羅の子どもを授かったことは、女として最高に幸せだ。 だが、自分の立場を考えると、泣きたいぐらいに切なかった。 横にいる吉羅を恐る恐る見る。 すると吉羅は、幸せそうな甘い笑みを浮かべていた。 これには流石に香穂子も驚く。 「有り難うございます、先生」 吉羅は本当に幸せそうな表情で礼を言っている。 それが香穂子には嬉しかった。 「検診には定期的に来て下さいね」 「解りました。連れて来ます」 吉羅はキッパリと言ってくれると、香穂子を守るように手を握り締めてくれた。 吉羅が喜んでくれる。 それがとても嬉しくて、香穂子はいつまでも笑顔だった。 診察室から出て、会計や手続きを済ませる。 吉羅がその間もずっと寄り添ってくれた。 車に乗り込むと、ようやくホッと出来た。 「…香穂子、出て行くことはこれでご破算だ。子供の母親として、私は君を離さない。君を出て行かせない。これからは子どものことを一番に考えるんだ」 吉羅はキッパリと冷たく言い放つと、香穂子をクールなまなざしで見つめてきた。 吉羅のまなざしを見ると、香穂子は胸が痛くなる。 先ほどの嬉しそうな表情は何だったのだろうかと、思わずにはいられなくなる。 「…子どもが出来た以上きちんとけじめをつけなければならないね。結婚しよう…」 吉羅が余りに事務的に言うものだから、香穂子は目を見開いた。 まるで子どもが出来たから結婚すると言っているようなものだ。 「…吉羅さん…、赤ちゃんが出来たから…、プロポーズをされたのですか…?」 香穂子は不安になる余りに訊いてみる。すると吉羅は、静かに頷いた。 「未婚でいるわけにはいかないだろう。それは子どものために良くない。私たちはきちんとけじめをつけて結婚するべきだと思うがね」 子どものために結婚するとしか考えていない。吉羅は、あくまでビジネスライクだ。 香穂子は泣きそうなぐらいに惨めな気分になった。 「…家に帰ったら、直ぐに手続きに入る」 吉羅の淡々とした態度が、香穂子には切ない。 胸を締め付けるような苦しみを感じずにはいられなかった。 「…吉羅さんは…、子どものためにだけ結婚されるんですか…? だったら…私…、お腹の子供はあなたの迷惑をかけずにひとりで…」 香穂子は吉羅の顔をまともに見ることが出来なくて、ただ俯いた。 「…君がひとりで何が出来るというのかね? そのお腹では、もう寮に戻ることは出来ないだろうしね…。香穂子、君は私の妻となり子供を産む。そしてヴァイオリンの勉強に励むんだ」 吉羅の冷たい声に、香穂子は反論したくても出来ない。 頷くことも、返事をすることも出来ずに、ただじっとしていた。 「君に色々と買いにいかなければならないから、このままショッピングモールに行くよ」 「…はい…」 香穂子は掠れた声で返事をした。 ショッピングモールでは、香穂子が必要な最高のものが準備された。 マタニティウェアには見えないお洒落なウェアの数々や、低い靴、負担のかからないバッグ、そしてオーガニック食材。 これらを吉羅は買い揃えてくれた。 品物を選んだり、配送手続きをしている間も、吉羅は香穂子を離さないように捕まえてくる。 子どもが欲しいからだ。 吉羅はそれだけなのだ。 そう思いながらも、香穂子は何処か希望を持ちたいと思っていた。 買い物の後、吉羅は香穂子をオーガニックレストランに連れていってくれて、お祝いをしてくれた。 「指環はきちんと用意をするが、婚約を祝おう。そして子どもが出来たことをね」 「はい…。有り難うございます…」 吉羅に祝って貰うことは嬉しい。 だが切なくて痛くてしょうがないのだ。 吉羅はそれを解ってはいない。 こんなにも香穂子が苦しい気持ちを、吉羅は少しも解ってはいないのだ。 それが悔しくて、切ない。 吉羅とのお祝いディナー。 それを楽しみながらも、香穂子は胸の奥に滲んだどす黒い不安を払拭することが出来なかった。 |