*きみが奏でる物語*

20


 今夜から、妊娠で気分が悪いからと、ひとりで寝ることにした。
 ひとりでいれば冷静にいられるから。
 香穂子は吉羅に申し出ることにした。
「夜中に悪阻がきたりしたら吉羅さんに迷惑がかかりますから…、ベッドを別にしましょう。今夜から私はひとりで寝ます…」
 香穂子がふわりとした笑顔で申し出ると、途端に吉羅の表情が厳しいものになった。
「…それは許さない」
 吉羅にキッパリと言われてしまい、香穂子は切ない気分になる。
 本当は吉羅とは一緒のベッドでいたい。
 だが、吉羅に愛されていない上で同じベッドにいるのは、たまらなく辛いのだ。
 愛されていると確信が持てるのであれば、香穂子はずっと一緒にいたいと思う。
「気を遣わなくても構わないんだ。私は…、君と一緒にいたい。君が具合が悪いのにひとりで眠ることは出来ない」
 吉羅は切なそうに言うと、香穂子を息が出来ないほどに強く抱き締めてくる。
 その強さに、くらくらしてしまう。
 こうして抱き締められていると、本当に愛されているのではないかと思う。
 少なくともお腹の子どもは愛してくれているだろう。
 だが、香穂子自身はどうなのだろうか。
 何処まで愛してくれているのだろうか。
 それが不安でしかたがない。
「…ずっと一緒にいてくれ…」
 吉羅の静かなのに情熱的な言葉に、香穂子は折れるしかない。
「…解りました…。一緒に寝ます」
「ああ」
 吉羅はホッとしたような表情をすると、香穂子を柔らかく抱き寄せた。
 その抱擁がとても温かくて、香穂子は思わず微笑んだ。
 こんなにも幸せなことはない。
 もし、吉羅が愛してくれていると言うのであれば、間違なく、世界で一番幸せだろうと、香穂子は思った。
 子どもがいるから気遣われる。
 それはそれで切ないことを吉羅は知らないだろう。
 吉羅に恋をしてしまった代償だと、香穂子は思った。

 香穂子を腕の中で抱き締めて眠るのがどれほど幸せか、恐らく、本人は気付いてはいないだろう。
 吉羅は息を立てて眠る香穂子を見つめながら、こんなにも幸せなこっはないと思った。
 愛しい香穂子のお腹に子どもがいる。
 紛れもないわが子だ。
 吉羅にとっては掛け替えのない子どもだ。
 こんなにも愛しい子どもは恐らくはいないだろう。
 香穂子が身籠もっていると知って、吉羅は飛び上がるほどに嬉しかった。
 生きて来て、最も幸せな瞬間だったかもしれない。
 これで愛しい香穂子を離さなくて良い。
 それが嬉しい。
 吉羅は香穂子の温もりを更に確かめるために、その躰を抱き寄せる。
 今宵は最高の夢が見られるような気がした。

 翌日、吉羅は香穂子を役所に連れていってくれ、ふたりで婚姻届を提出した。
 細かい準備は、吉羅の弁護士がしてくれたため、とても楽だった。
「今日から君は吉羅香穂子だ。君も“吉羅さん”だから、これからは“吉羅さん”とは呼ばないように」
「あ、あの…、だったらどのように呼べば良いですか…?」
「暁彦」
「…え…?」
「暁彦と呼んでくれ」
 いきなりそんなことを言われても、やはり抵抗はある。
 今までずっと名字で呼んできたのだから、名前で呼ぶのは恥ずかしくてしかたがない。
「吉羅さんは禁止だ。香穂子」
「…は、はい…。あ、暁彦…さん…」
 なかなか言い慣れていないから、香穂子は恥ずかしくてしかたがない。
 はにかんだこそばゆい雰囲気で、吉羅の名前を呼ぶと、ふわりと抱き締められてしまった。
「後は指環だな」
 吉羅は香穂子の左手薬指をゆるやかに撫でる。
 それが極上の愛の行為のように思えて、嬉しかった。
「…君は正式に私のものだ。これからの行動は慎むように。例えば…、他の男と出掛けるようなことは止めたまえ」
 吉羅は低い声でキッパリと言う。
 それが本当に嫉妬からくる言葉であれば、これほど嬉しい言葉はないというのに。
 吉羅の冷たいまなざしを見ていると、ただの所有欲としか思えないのだ。
「香穂子、明日、大学に行って、奨学金申請と入寮申請を取り下げることと、結婚したことに伴う手続きをしてくるんだ」
「はい。解りました」
 香穂子が返事をすると、吉羅は頷いてくれる。
 抱き締められているのに、こうして甘い気分になっているのに、幸せな気分になれないのは何故だろうか。
 何か物足りない幸せを感じてしまう。
 解っている。
 きちんとお互いの想いを伝えてはいないからだ。
 吉羅に「愛している」と言って貰っていないからだ。
 愛しているからこそ、愛されたいという欲求が強いのだと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 ふたりで優しく甘い時間を紡いで、柔らかな気分で愛し合う。
 密の濃い愛の営みだ。
 吉羅と愛し合った後で、優しく守るように抱き締められる。
 こうしていると、吉羅に本当に愛されているのではないかと思う。
 愛し、愛されることが、香穂子には幸せな空間を作っていると感じさせる。
 香穂子の頭を柔らかく撫でながら、吉羅は低い声で囁いてきた。
「…気分はどうかな…?」
「…大丈夫です…」
「妊娠しているのに、君を無理に抱いてしまったね…。だが、君が欲しくてたまらないんだよ…」
「暁彦さん…」
「幸せにする」
「私もあなたを幸せにしたいです」
 香穂子が柔らかく呟くと、吉羅は再び組み敷いてくる。
 そのまま愛の世界に溺れていった。

 香穂子が結婚をして「吉羅」になったことは、瞬く間に知れ渡ってしまった。
 名前が明らかに変わったのだから、しかたがない。
 吉羅の“愛人”だと陰口を叩いていた女子たちは、今度は“略奪愛”だと揶揄していた。
 気にしてもしかたがないことなので、香穂子は無視することにした。
 そんなことで気にすることはない。
 お腹の子どもを守らなければならないのだから。
 お腹の子ども。
 本当に心から愛している男性の子どもだから、香穂子は負けるわけにはいかなかった。
「吉羅さんの婚約者から、躰で奪い取ったんだよ」
「へえ…、意外にやるんだ…」
 そんなことを耳にしても、香穂子は耐えるしかなかった。
今日も噂話を言われて唇を噛み締めて耐えていると、金澤が声を掛けてくる。
「日野!」
「金澤先生…」
 香穂子はにっこりと微笑むと、金澤に深々と挨拶をした。
「…おっと…、今は“吉羅”だったな…」
「はい。今はそうです」
 香穂子は曇り気味の笑顔を浮かべると、金澤を見た。
「結婚おめでとう…」
「有り難うございます」
「まさかお前さんが吉羅のヤツと結婚するとは思わなかった」
「私も驚いています」
 香穂子はお腹にそっと手を当てる。
 この子が授かったから、吉羅と結婚したのだ。
 吉羅にとっては本当に自分の子どもを私生児にしない為の結婚に過ぎないのだから。
「…吉羅さん…、婚約者の方がいらっしゃったんですか?」
「…いいや。婚約者がいるとは、一度も訊いたことはない…」
 金澤の言葉に、香穂子は少しだけホッと胸を撫で下ろす。
 香穂子は、誰かを傷つけたくはなかったからだ。
「…子どもがいるのか…?」
「はい。三か月です」
「良かったな、それは。吉羅のヤツは余程お前さんに夢中なんだろうな。離したくはないんだろうな」
「…え…?」
「あの男は、いつも冷静沈着だぜ? 子どもを作らないように、きちんと手を打つ。しかもかなり慎重にな。だが、お前さんに子どもが出来た。それはお前さんに誰よりも夢中だということだ」
「…金澤先生…」
 そうであれば良いのにと、香穂子は思わずにはいられなかった。



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