*きみが奏でる物語*

21


 吉羅が本当に愛してくれているのか、香穂子は不安でしょうがなくなる。
 愛のない家庭なんて、家族なんて、香穂子には考えられない。
 惰性で一緒になれば、ありとあらゆるところで綻びが出ることは、香穂子が一番解っているつもりだ。
 想像なんて出来る筈がなかった。
 香穂子にとって愛がない家庭ほど、不幸なものはないと思っていたから。
 子どもは確実に愛してくれるだろう。
 だが、香穂子自身をきちんと愛してはくれないような気がする。
 吉羅の子どもを身籠もった後のほうが、より不安が増すような気がした。

 香穂子は久しぶりにカフェに入ることにした。
 コーヒーを飲むことは出来ないから、ミルクだ。
 ケーキはフルーツたっぷりのミルクレープを選ぶことにする。
 何だか家に帰りたくない。
 吉羅に逢って、抱き締められたりするのは嬉しいが、現実を思うと切なかった。
 子どもが出来たから、致し方がなく結婚をした。
 それが頭にこびりついて離れない。
 香穂子はひとりになって、静かに心を落ち着けるまでは帰りたくないと思った。
「…あ、吉羅さんの奥さんよ…」
 たまたま知り合いのセレブリティな女性たちが、カフェに入ってきた。
 彼女たちは香穂子に挨拶をすることなく、カフェの中央の席で話に花を咲かせる。
「…吉羅家といえば、元々は公家なんですよね。由緒正しいようよ。華族の家柄らしくて、戦前は貴族院の議員だったって話だよ」
「やっぱりかなりのセレブなんだね」
「そう、そう。名門としか結婚しない家柄なんだけれど…ね…」
 ちらりとこちらを見られたような気がした。
 確かに香穂子の家は、先祖代々の庶民だ。
 吉羅と逢うまでは、そんな上流社会とは、一生かかわりがないと思っていたのに。
 改めて吉羅はかなりのセレブリティだと思いしらされた。
 釣り合いが取れないのは解っている。
 香穂子は益々気分が暗くなった。
 吉羅とは余りにも違い過ぎる。
 時代が違えば、恐らくは関わることはなかっただろうし、それに身分違いの恋だっただろう。
 香穂子は益々暗い気分にならざるをえなかった。
 まるで香穂子の耳に入れて楽しんでいるように思える。
 これが吉羅暁彦を愛した代償なのだろうと、香穂子は思った。
 ミルクレープを少しずつ食べながら、このままカフェから出れば相手の思う壺だ。
 だから出て行きたくはなかった。
 ミルクレープを少しずつ食べながら、香穂子は胸が痛くなる。
 不意にカフェの雰囲気が変化する。
 思わず顔を上げると、そこには吉羅がいた。
「ミルクレープを食べるのに、どれほど時間がかかっているのかね? 私の奥さんは」
 吉羅は冷たいのに何処か柔らかな口調で話してくる。
 香穂子が驚いて顔を上げると、吉羅は店員にコーヒーを頼んだ。
「一緒に帰ろう。今は大事な時期だから、余り無茶をするんじゃない」
「…はい…。有り難うございます」
 何とか笑顔を作ろうとしたが、なかなか出来なかった。
 香穂子が切ない気分でいると、吉羅は顔を覗き込んでくる。
「…どうしたのかね…?」
「大丈夫です…」
 香穂子はなるべく笑うようにしたが、なかなか思い通りには出来なかった。
 ミルクレープを食べると、吉羅は少しだけホッとしたような表情になった。
「無理は禁物だよ。君は」
「ご心配有り難うございます」
 香穂子は上手く笑おうとしたが、やはり笑えない。
 吉羅とは身分が違い過ぎる。
 そのことがぐるぐると頭にまわって離れなかった。
 香穂子たちの様子を見ている女たちに、吉羅は軽蔑をするように一瞥を投げる。
「ミルクレープを食べたら帰ろう」
「はい」
 香穂子は思い直して、ミルクレープを食べることにした。
 こんなにも情緒が不安定なのは、マタニティブルーだからかもしれない。
 妊娠中は、ホルモンのバランスの兼ね合いで、落ち込みやすくなると聞いたことがあったからだ。
 いつもならば聞き流せることも、なかなか聞き流せなかった。
 どんな些細なことでも不安になる。
 それは逆に、吉羅に愛されている自信がないことへの裏返しだろうと香穂子は思った。
 香穂子がミルクレープを食べ終わると、吉羅もコーヒーを飲み終える。
 席を立ち上がると、吉羅はさり気なく手を繋いでくれた。
「有り難うございます」
 礼を言うと、吉羅がフッと笑ってくれる。
 その優しいまなざしは自分だけに与えられたスペシャルなプレゼントだと、香穂子は思った。
 吉羅に守られるようにカフェから出る。
「香穂子、我慢しなくても構わないんだ。辛いことを言われたら、いつでも言うんだ。君に悪意があるようなことを言うのは、私が許さない」
「…有り難うございます…」
 吉羅な優しい心遣いに、笑みが零れ落ちる。
 先ほどの辛いことも、吉羅の優しさで消える。
 今は何でもないことのように思えた。
 吉羅の車に乗り込み、自宅へと向かう。
 吉羅の家が、香穂子にとっては我が家になった。
 これ以上の素晴らしい我が家はないのではないかと思う。
 吉羅とふたりでこうしてずっと一緒にいられたら良いのにと思う。
「香穂子、余り無理はしないほうが良い。私は君の躰が心配だ。余りストレスを貯めないほうが良い…」
「暁彦さん…」
 抱き締められて、香穂子はホッとする。
「大丈夫です。あなたがこうして抱き締めてくれたら安心しますから、ストレスは余り感じませんよ」
 吉羅はフッと笑うと、香穂子を思い切り抱き締めてくれた。
 こうしているだけで、愛されていると感じる。
 どうか愛して欲しい。
 それは我が儘なのだろうか。
 吉羅に愛されたい。
 香穂子は切ない想いを心の奥に滲ませていた。

 吉羅は、香穂子が安心出来るようにと、大学への送り迎えの手配を整えてくれる。
 本当に色々と気遣ってくれている。
 それは本当にとても嬉しい。
 だが、香穂子は、吉羅に愛されているというよりは、まるで保護をされているような気分だった。
 子どもの母親になるから、そこまで気遣ってくれているのだろう。
 その事実がちらちらと見えたような気がして、切なかった。

 いつものように大学から帰ると、吉羅が珍しく家にいた。
「香穂子。夫人同伴のパーティがある。カジュアルなものだが、支度をして着いてきて欲しい。構わないかね…?」
「はい」
 香穂子はどうして良いかが解らなくて、おろおろとしてしまう。
 夫人同伴と言われてもどうして良いかが解らない。
 すると吉羅は、香穂子にさり気なく紙袋を手渡してくれた。
「ここにはワンピースが入っているから、それを着たまえ。ワンピースは締め付けないタイプのものだから、大丈夫だろう。ハイヒールは危険だから、低いものも用意している」
「…はい。有り難うございます…」
 香穂子は素直に受け取ると、それを大切に抱き締めるように抱えた。
「直ぐに着替えてきなさい。余り時間がないからね」
「はい、解りました」
 香穂子は自室に向かい、準備をする。
 余り待たせては、吉羅が怒るだろう。
 香穂子は直ぐに服を脱ぎ、紙袋からワンピースを取り出した。
「わあ!」
 白地に薄紅色の花がプリントされた、とても綺麗なワンピースだ。
 クラシカルな雰囲気に、香穂子は思わずうっとりとする。
 ワンピースに袖を通すと、華やいだ気分になった。
 クラシカルな雰囲気だったので、香穂子は髪を三つ編みにして上げる簡単アレンジをする。
 軽く化粧を直して、吉羅の元に向かった。
「…暁彦さん、お待たせしました」
 香穂子が吉羅の待つリビングに向かうと、ゆっくり振り返られた。
 暫く見つめられて全身が熱くなった。



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