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「…吉羅さん…っ!」 あからさまに音を立てて首筋を吸い上げられて、香穂子は背筋を震わせた。 「…お終いだよ。ダイニングに行こうか。エスコートしよう」 吉羅は薄く笑うと、香穂子に手を差し延べてくれる。 そのまま手を取って立ち上がると、ダイニングへと向かった。 こうしてエスコートをされると、最高の女になった気分になる。 吉羅は男としては極上には違いないから、まるで釣り合ったように気になる。 実際はそうではないのだが。 「わあ!」 ダイニングを見るなり、香穂子は歓声を上げる。 テーブルの上には沢山の料理、花、そしてシャンパンだ。 「とても嬉しいです、吉羅さん。有り難うございます」 「君のお祝いだからね。外に出掛けても良かったんだが、君とシャンパンで乾杯をしたかったからね」 「有り難うございます。嬉しいです…、私」 こうして吉羅と過ごす最後の夜に、最高の演出をして貰えて嬉しい。 「後でヴァイオリンを弾いて欲しい。構わないかな?」 「はい。勿論です」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅も微笑んでくれた。 吉羅とふたりでテーブルに着いて、たっぷりと美味しい食事を味わう。 レストランのように給仕はいないが、それがかえって良かった。 こうしてフォーマルでありながら、カジュアルな雰囲気を楽しめるのだから。 夕食をこうしてふたり揃って家で行なうなんて、かなり久しぶりだ。 一緒に暮らしていた一年間では、数える程だった。 外食の時には、いつも一緒であったが、家にいる時は、香穂子がひとりで簡単に食事をするのが殆どだった。 「こういう感じが凄く好きです」 「それは良かった」 吉羅との最後のひとときには相応しいと、香穂子は思う。 「ずっとこうして毎日食事をしたいって思っていました…」 香穂子は見果てぬ夢を話す気持ちで呟く。 「こうしてふたりで、この場所でただ話をしながら食事をするのが、私は好きでした。食事のメニューなんてどうでも良いんです。こうして吉羅さんと一緒にいるだけで、嬉しかった。楽しかった…」 まるで懐かしくも温かな過去を愛おしむように呟くと、香穂子は食事をポツリとする。 「…今から…、すれば良いんだ…。こうして食事をするのは…」 「そうですね」 香穂子はにっこりと笑いながら、何処か切ない気分になる。 次はないのだ。もう。 吉羅と付き合うことは有り得ない。 きちんと決心したのだから。 吉羅とふたりで、夢のゆうな時間を過ごした後、皿を片付けて、デザートの時間になる。 甘いデザート。だが、それが香穂子にとってはしょっぱいものになることは充分に解っていた。 コーヒーを淹れて、ふたりは席に着いて見つめ合う。 チャンスは今しかない。 香穂子は、胸が切り裂かれる痛みを感じながら、にっこりと穏やかに微笑んだ。 「…吉羅さん…。今まで有り難うございました。お陰様で、こうして回復することが出来ました。感謝しています」 香穂子は穏やかな表情のままで、吉羅にこころを込めた謝辞を言う。 吉羅はいつもよりも幾らか厳しいまなざしで、香穂子を見つめてきた。 「…吉羅さん、あなたのお気遣いにはとても感謝しています…。あなたが私に示して下さった行為も決して忘れられません…」 香穂子は穏やかに呟くと、吉羅を真っ直ぐ見つめた。 「…明日、ここを出ます。これであなたもようやく自由になれますよ。…どうかお元気で…」 香穂子は泣きそうになるのを必死に堪えながら言う。 洟を啜りながらちらりと吉羅を見ると、香穂子をじっと厳しい瞳で見つめてきた。 「…乾杯しようか。私たちの新しい関係に…」 「…そうですね…」 余りにすんなりと吉羅が受け入れるものだから、香穂子は息が苦しくてしょうがなくなった。なんて切ない。 こんなにも泣きそうな瞬間は、他にないのではないかと思った。 吉羅はシャンパングラスにシャンパンを注ぐと、香穂子に乾杯を促す。 「君と私の新しい未来に…」 吉羅は静かに言うと、グラスを傾けた。 シャンパンを口に含むとかなり苦い。 これで良かったのだと思いながらも、愛する男性と離れる辛さや切なさをしみじみと感じていた。 シャンパンを飲んでいると、吉羅は突然立ち上がる。 そのまま香穂子の座る席の背後に来ると、いきなり抱き上げてきた。 「き、吉羅さ…っ!」 「…君と私はまた新しい関係になるんだ。言っただろう? 私は君を離す気はないと…」 吉羅はそのままマスターベッドルームに歩いていく。 「…私は…、もう…、あなたが他の女性と一緒にいて、いつか他の女性にこころを移すのが嫌なんです…! いつも綺麗なひとを公式の場所に連れていくから…」 「彼女たちとは寝ない」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子をベッドに寝かせて抱き締めてきた。 抵抗出来ない。 それどころかもっと強く抱き締めて欲しいとすら思ってしまう。 本当に望んでいるのは吉羅の愛情だ。 逆を言えば、それ以外はいらなかった。 吉羅は香穂子のドレスを脱がせると、滑らかな肌を味わうように触れてくる。 「…君以外の女はもう抱けない…。…思いしらされたんだよ…。君をどれ程必要としているか…。それを君のこころと躰に、しっかりと教え込まなければならないね」 吉羅は低くて冷たいのに、どこか甘い声で囁いてくる。 今までは伝染する可能性があって出来なかったキスを味わうように、深い角度で唇を重ねてきた。 キスをされるだけで、躰が吉羅に対して従順になってしまう。 最初は、吉羅が一方的に香穂子の唇を愛していたが、やがて香穂子も同じリズムで舌を絡ませていく。 頭がくらくらしてしまうほどに気持ちが良くて、唾液が首筋に流れるのも気にならない。 いつしか吉羅を抱き寄せて、自らキスをねだっていた。 お互いにずっとキスをしていなかったせいか、貪るように求める。 息が出来なくても気にならないギリギリのところまで唇を求め合った。 息を整える為に一旦唇を外した後も、潤んだ官能的な瞳で見つあう。 吉羅に顎のラインを撫でられるだけで、胸の奥がキュンと音を立てて高まっていた。 吉羅は、香穂子の総てを貪り尽くすように、唇を首筋に押し当てる。 以前もこうして情熱的に愛してくれた。 だが躰で愛してくれるだけでは足りないのだ。 たった一言で良いから、愛の言葉を聴かせて欲しい。 それがあれば救われるから。 それがあればこれからもずっと一緒にいられるから。 香穂子は吉羅の情熱を受けとりながらも、愛を必死になってねだった。 「…吉羅…さん…っ!」 吉羅は香穂子の首筋の滑らかさを堪能しながら、下着を巧みにはぎ取る。 その色のある仕草に息が乱れる。 「…香穂子…。以前のように私を名前では呼んでくれないのか…?」 言葉の端々に苦悩が聞こえる。 香穂子は熱い苦しみを受け取る切なさに、思わずその名前を呼んだ。 「…暁彦さん…!」 名前を呼んでしまえば、愛が苦しい程にあふれてくる。 名前を呼ばなかったのは、香穂子にとっては枷だった。 名前ではなく他人行儀な名字を呼ぶことで、何とか踏みとどまっていたのかもしれない。 香穂子は吉羅の逞しく綺麗な肉体を抱き寄せる。 もう一度名前を呼んだ。 「暁彦さん…!」 吉羅はもう歯止めが効かないとばかりに、香穂子を抱き締めて、鎖骨周りにキスの雨を降らせる。 沢山の所有の痕を刻まれて、もうこれが消えなければ良いのにと思わずにはいられなかった。 |