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若干、緊張しながら、香穂子は静かに診察室に入る。 白血球の数を調べる為に、血液検査をして結果を待った。 「日野さん、よく頑張りましたね。数値は総て元の元気な状態に戻っていますよ。これでいつもの生活に戻っても構いませんよ。ただし、無理はなさらないように」 「はい」 医者からの言葉に香穂子はホッとしながら、笑顔で頷いた。 「香穂子、よく頑張ったね」 「有り難うございます」 香穂子は少しばかり寂しさを感じながらも、吉羅に笑顔を向ける。 これで完全に吉羅から離れることになる。 今夜、吉羅に出て行く旨を伝えなければならない。 「婚約者の方も今日から接触可能ですからね」 医者は何処か甘い幸せを滲ませるように言うと、香穂子はまた切なくなった。 医者が考えているようなことは、もう起こらないのだから。 香穂子は静かに頷くと、医師に頭を下げて礼を言う。 「有り難うございました」 吉羅は直ぐに香穂子の手を繋いでくる。 ふたりでもう一度頭を下げた後、駐車場へと向かった。 「有り難うございました、吉羅さん。これで大丈夫ですから」 「そうだね。香穂子、今日からまた以前のように暮らして行こう」 「有り難うございます」 香穂子は吉羅を見上げると、にっこりと微笑む。 「これで自由に外出も出来ますから、またカードキーを下さい。暗証番号も教えて欲しいです」 香穂子は、さり気なく何気なく言ったつもりだった。 だが吉羅は眉を神経質に寄せる。 「駄目だ。もう少し落ち着いてからだ。大学には私が送って、帰りは迎えを寄越す。だから君は当分大事をとれば良い」 「…暁彦さん…」 また出て行くと決めたことを、吉羅は気付いているのだろうか。 そうだとするならば、こうして引き止められるのは、女としての歓びが湧き上がる。 だが、その後の苦しみはどうなるのだろうか。 吉羅がまた、あのように他の女性と一緒にいるのは、本当に我慢出来ない。 それだけ愛しているから。 狂ってしまうほどに愛しているから。 「君を送ったら仕事に出るが、今日は早く帰る」 「有り難うございます」 車に乗り込むと、吉羅はミッドタウンまで走らせる。 車に乗っている間、香穂子は自分の気持ちに問い掛ける。 どうしたいのだろうか。 本当は吉羅のそばにいたくてしょうがないのではないだろうか。 そうすればきっとこころは壊れてしまう。 自分だけを見て欲しかった。 吉羅にミッドタウンまで送って貰った後は、一日そこで過ごす。 この家で過ごすのは今日一日だけだから、香穂子は横になるのを止めて、思い切り楽しむことにした。 本当は今日は仕事を休みたかったが、どうしても外せないミーティングがあり、吉羅はそれに出席をした。 ミーティングが終わると、秘書には連絡は一切しないようにと伝えて、吉羅は会社を出る。 足早に歩いていると、ショーウィンドウに目が止まる。 そこには、美しい白のシンプルなスリップドレスが飾ってあった。 直ぐに香穂子にぴったりだと想い、ブティックに入るなり直ぐに購入をした。 とても綺麗なドレスだ。 香穂子は、天使のような素直な清楚美と妖艶な美が交錯している稀有な存在だ。 屈託なく笑う姿は天使のように無邪気なのに、ふと見せるマチュアな横顔はとても妖艶な美しさを持っている。 吉羅にとっては、類いまれな存在だった。 こんなにも綺麗な女性は何処にもいない。 様々な顔を持っているから、吉羅を飽きさせることもなかった。 ひょっとして何生掛かっても飽きない女性なのかもしれない。 そんな香穂子に似合うと思ったドレスを、今夜、着て貰いたいと思っていた。 今夜はお祝いをする予定だ。 香穂子が元気を取り戻したから。 そしてこれからの自分達がずっとこのままでいられるようにと願いを込めて。 指環も用意をした。 香穂子を永遠につなぎ止めていられるように。 香穂子が病気になりいなくなってしまったことが、自分のなかでは余程堪えた。 香穂子がいなくなってしまうなんて、それまでは全く考えられなかったから。 香穂子を失うなんてことは、もう考えられないから。 吉羅は花をシャンパンを買うと、車で自宅へと向かった。 玄関のセキュリティが解除されて、香穂子は以前のように吉羅を出迎えにいった。 「おかえりなさい」 「ただいま」 吉羅はいつも通りにクールな表情で言うと、香穂子に大きな箱を手渡す。 「今日は君が全快したお祝いだ。これに着替えてくれ」 「有り難うございます」 まさか吉羅からドレスが渡されるとは思わなかった。 ドレスアップをするのは本当に大好きだ。大好きで堪らないひとの前では特に。 吉羅が見に来てくれた演奏会でも、気合いを入れてドレスアップをしていた。 それもまた遥か遠い昔であるけれども。 「有り難うございます。早速、着替えて来ますね。少しだけバスルームを使っても構わないですか」 「ああ」 香穂子は「有り難うございます」と呟いて、先にシャワーを浴びた。汗を軽く流して、マッサージバーで肌を擦る。 こうして肌をメンテナンスをして、ドレスに備える。 バスローブでバスルームから出ると、吉羅と鉢合わせをする。 艶やかな危険なまなざしで見つめられて、香穂子は胸の奥をひどく焦がす。 「マスターベッドルームを空けてあるから使いなさい。私の着替は書斎に移動させたから問題はないから」 「有り難うございます」 吉羅をまともに見たら、本当に抱き締めて貰いたくなるから、香穂子は何とか踏みとどまる。 マスターベッドルームに入ると、香穂子は先ず薄化粧をした。 綺麗に化粧をするのは大好きだが、決して濃いわけではない。 あくまでクールな薄さだ。 特に瞳と唇は念入りにする。 瞳を大きく魅せて際立たせるために、アイラインをしっかりと引き、上品なゴールドのリキッドアイカラーをベースにしてスモーキーなグレーを瞼に乗せた。勿論、マスカラも忘れてはいない。 唇はオーバーリップ気味にライナーで作り、ストロベリーのグロスをたっぷりと使えば完成だ。ぽってりとしたセクシーな口元が出来上がった。 後は髪をシンプルなシニヨンに上げる。 後はドレスを着るだけだ。 香穂子がドキドキしながら箱を開けると、白くて清楚なドレスで、香穂子が大好きなデザインパターンだった。 「物凄く綺麗だよ…」 本当に綺麗でうっとりと見惚れてしまう程だ。 香穂子はバスローブを脱いで、下着を身に着けた後、ドレスを身に着けた。 香穂子の胸が少し大きいのか、ファスナーが胸元だけ上手く上がらない。 焦ってしまってよけいにだ。 「香穂子、準備は出来たのかね?ケータリングも来たから、こちらは準備万端だよ」 「…あ、あの、後、少しなんですが手伝って貰えませんか?」 香穂子は何も考えずに、吉羅に助けを求めた。 「しょうがないね。中に入るよ」 「お願いします」 マスターベッドルームのドアが開き、香穂子は振り返る。 すると、仕立ての良い黒のシンプルなシャツの胸元を開けた形で着こなす吉羅が入ってきた。 圧倒される程の男らしい艶やかさに、香穂子は頭がぼんやりとしてしまうほどに魅了されてしまう。 「何をすれば良いのかね?」 「ドレスのファスナーが上手く上がらないんです…。何だか恥ずかしい話ですけど…」 「私が上げよう」 吉羅は香穂子の背後に付くと、ファスナーを上げてくれる。 すんなりと上げてくれたのでホッとしていると、いきなり首筋に唇を押し当てられた。 |