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吉羅が結婚を申し出てくれている。 これ以上に嬉しいことはないと思いながらも、胸が苦しいほどに痛い。 躰を心配してくれているのは解ってはいる。 だが、それは今だけなのではないかと思ってしまう。 苦しい、痛い感情を思い出してしまうから、素直にはなれなかった。 香穂子はソファベッドに横になりながら、吉羅がシャワーを浴びている音を遠くに聴く。 以前ならば、この音を聴きながら、鼓動を激しくさせたものだ。 だが、今は違う。鼓動を激しくさせて待ちわびることなど、出来やしない。 なのに、この音を聴いていると安心する。 香穂子はうとうとと夢の世界でまどろんでいた。 「香穂子…」 夢見心地の向こう側で、吉羅の声が聞こえる。 「…吉羅さん…」 「あちらのベッドに行くよ。夜眠る時は一緒だ…」 香穂子は夢から突然醒めると、吉羅を見上げる。 「ここで眠ります…。あなたに移してしまうから…」 「私には移ってはいないよ。恐らくは。だから移らないだろう。ここで過ごすよりは、夜はきちんとベッドに戻りなさい」 吉羅が抱き上げようとするものだから、香穂子は首を横に振る。 「お願いします。このままここにいたいの…」 「香穂子、夜は私もあちらに行く。頻繁に君の面倒を見る訳にはいかないんだ。わがままをいわなでくれ」 「…大丈夫です…。ひとりで出来るから…」 香穂子は声を掠れさせると、ベッドにしがみつく。 「…香穂子、君はいつからそんなに子どもになったのかね。勝手にしなさい」 「…はい…」 吉羅は眉根を寄せると、香穂子を信じられないとばかりの表情で見つめる。 冷たいいつもと同じまなざしに、香穂子は見ないように目を閉じた。 直ぐに電気が消されて、香穂子はホッと躰から力を抜く。 だが後味悪い安堵だった。 いつの間にか眠っていたらしい。 柔らかな陽射しを受けて、香穂子は目を開いた。 優しい日差しだ。 久し振りに少しばかり気分が良い。 恐らくは薬が効き始めているのだろう。 香穂子は躰を起こすと、身仕度を始めた。 これぐらいならば家に帰れるだろう。 当分、家でゆっくりとして、そこからまた頑張っていけば良い。 「…香穂子、何をしている」 吉羅の冷たい声が聞こえて、香穂子は振り返った。 「吉羅さん…」 「寝ているんだ。まだ無理をしてはいけない…」 吉羅は、有無を言わせずに香穂子を抱き上げると、ベッドへと運んで行く。 「本当に、もう大丈夫ですから! 吉羅さん!」 「顔色は変わってはいない。それに医師から安静だと言われているだろう。今はゆっくりと休むことだけを考えていたまえ」 「…大丈夫です。家に帰れるだけの体力は戻ってきましたから」 香穂子が反発をするように言うと、吉羅は睨み付けてくる。 「君を家には帰す気はない。ここでゆっくりと療養するんだ。良いね」 吉羅は香穂子の眠るソファベッドから離れると、ダイニングへと向かう。 「今日は仕事に行く。夕方までは家政婦さんが来る。セキュリティの暗証番号は変更しておいたからね。君は出られない」 吉羅のキッパリとした言葉に、香穂子は驚いて息を呑む。 「…私を閉じ込めるんですか…?」 「…いいや。君が病気を治す環境を整えるだけだ」 吉羅はクールに何もなかったかのようにさらりと言うと、キッチンに入って手早く朝食を作り始めた。 香穂子がいなくても、吉羅は何でも自分でする。 それは香穂子よりも上手いぐらいだ。 手早く朝食を作ると、香穂子にも持ってきてくれた。 「どうぞ。いつもの茶粥だ」 「有り難うございます」 吉羅はダイニングテーブルに向かうと、そこに着いて静かに食べ始める。 香穂子も躰を起こして食べ始めた。 「今日は仕事に行くが、明日は一緒に病院に行く」 「有り難うございます」 「今日はしっかりと休みなさい。そうすれば随分と良くなるだろうからね」 「はい。本当に何もかも有り難うございます」 香穂子が儚げに笑うと、吉羅はフッと優しい笑みをくれた。 こうして献身的に世話をしてくれるのは、とても有り難い。 だが、病気が治ってしまったら、また以前の切なく苦しい関係になってしまうのではないかと不安になる。 愛の言葉がないままで、プロポーズを受けることは香穂子には出来なかった。 吉羅が身仕度を終えて出て行く時、せめて「行ってらっしゃい」を言いたくて、香穂子は玄関先に向かう。 「吉羅さん、行ってらっしゃい」 「ああ。行ってくる」 今までは黙って見送られるだけだったのに、吉羅は優しく返してくれる。 それが香穂子には嬉しくて、思わず微笑んでしまう。 「…香穂子、君は太陽のように笑っていたほうが良い。それと余り無理をしないほうが良い。“行ってらっしゃい”なら、ベッドのなかでも出来るからね」 「お気遣い有り難うございます」 吉羅はフッと笑うと、まるで小さな子どものように髪を乱している香穂子の頭を優しく撫で付けてくれた。 吉羅が仕事に行ってしまうと、寂しくてしょうがない。 かたくなに一緒になることを拒否しているのに、こうして吉羅がいないと寂しくてしょうがない。 本当は優しく抱き締めて貰いたいし、一緒に眠りたい。 感染症に掛かっている以上は、元気になるまでは一緒に眠るのは難しい。 治った後で、吉羅が愛の言葉を呟いてくれなければ、また元の生活に戻る。 愛していると囁いてくれるならば、そばにいる。 囁いてくれないのであれば、そばにいないほうが良い。 香穂子はそれだけをこころに決めて、病気が治るまではここにいることにした。 治るまで。 きっとそんなにはかからないだろう。 原因が解ったのだから。 この短い時間の間で、吉羅が愛を伝えてくれるとは思えないけれども。 香穂子は、捨てられる恐怖に怯えるよりも、こうして自分から離れたほうが良いのではないかと、切なく思う。 これは最後の賭けなのだ。 吉羅の愛情を本当の意味で確かめる為の。 香穂子は軽く唇を噛むと、永遠に病気が治らなければ良いのにと考えていた。 香穂子が突然消えてしまうなんて、もう沢山だ。 こんな想いをする前に、掴まえてしまえば良い。 だから結婚を切り出した。 永続的に香穂子と一緒にはいたい。それにはもう、法律で縛り付けてしまうしかない。 香穂子が他の男のものになるなんて、未来永劫考えられない。 吉羅は仕事の手が空くと、自宅に香穂子宛てに電話をした。 「…はい、香穂子です」 電話越しで香穂子の声を聴いて安心する。 「香穂子、具合はどうかね?」 「有り難うございます。少しはマシですよ」 「それは良かった。何か食べたいものはないかね?」 「大丈夫ですよ。今はまだ余り食欲がないですから、思い付きません。お気遣い有り難うございます」 「…食べなければ躰に良くない」 「大丈夫です。出された物はちゃんと食べていますから。吉羅さんもお仕事が忙しいとは思いますが、気をつけて下さいね。栄養ちゃんと…あ…吉羅さんならちゃんとしますよね。それぐらいは」 香穂子は受話器の前で苦笑いを浮かべている。 声を聴くだけで、逢いたくてしょうがなくなる。 こんなことは初めてだ。 香穂子とは、余りこうして電話で話したことはなかった。 電話で話すような付き合いは短くて、一緒に暮らすようになってからは、殆ど連絡などしなかった。 こうして連絡をするのも、しみじみ良いものだと思った。 「今夜は遅くなるから、早く寝なさい」 「はい、有り難うございます」 「じゃあ」 吉羅は電話を切ると、甘い溜め息をひとつ吐いた。 |