*君へと続く道*


 吉羅が家に戻ったのは、深夜に差し掛かった頃だった。
 香穂子がちゃんと寝ているかを、直ぐに見に行く。
 リビングのソファベッドで、香穂子は柔らかな吐息を立てて眠っていた。
 吉羅はそれを確かめるなり、ホッとする。
 額に掛かった髪を優しく撫でると、とてもあどけない寝顔になる。
 本当に愛らしい。
 こうして素顔になって、無防備になっている姿のほうが、とても魅力的に映った。
 吉羅は、寝顔を見ているだけで、疲れが吹き飛ぶ気分になる。
 この寝顔も何もかもが吉羅はとても愛しく思えた。
 シャワーを浴びて、再び香穂子のベッドに立ち寄る。
 本当はこのまま抱き締めて眠りたいのは山々だが、やはりそうはいかない。
 今は香穂子が拗ねるようなことは、極力避けたいのだ。
「おやすみ…」
 吉羅は香穂子に甘く囁くと、仕方なくマスターベッドルームへと向かった。

 翌日、香穂子は吉羅に連れられて、病院へと向かった。
 吉羅の検査結果も分かるのだ。
「婚約者さんは、白血球増加症にはかかってはいませんでしたよ。良かったですね。後、日野さんも数値が落ち着いていますから、このまま快方に向かうでしょう。良かったですね」
 医師の言葉に、香穂子はホッと安堵の笑顔を漏らした。勿論、吉羅も僅かだが微笑んでくれている。
 それが嬉しい。
「だがもう少し安静にしていて下さい。まだ病原菌を根絶やしにしたわけてはないですから、婚約者さんももう少しだけ自制して下さい」
 何を言っているのかは直ぐに解ったが、香穂子は頬を赤く染めたままで俯いてしまった。
「…今度は一週間後に来て下さい。これで完治と伝えられるかもしれませんからね。やはりお若いですから体力があるから治りも早いですね。あなたは。良かったですね」
「有り難うございます」
 香穂子は丁寧に礼を言った後、吉羅と共に診察室を出た。
 自分が快方に向かっているということよりも、吉羅に移さなかったという事実が、香穂子には嬉しくてしょうがなかった。
「…吉羅さん、良かったです。あなたに病気を移していなくて…」
「大丈夫だとは思っていたからね、私は。私は、君が快方に向かって良かったと思っているよ」
「有り難うございます。吉羅さん」
 香穂子がようやく笑みを唇に浮かべると、吉羅は頷く。
 それがとても魅力的な仕草だった。
「君をうちまで送ったら、私は仕事に向かうから」
「はい。有り難うございす」
 香穂子は、吉羅の気遣いに感謝をしながら、にっこりと微笑む。
 以前に比べて、吉羅は本当に気遣ってくれるようになった。
 そこには愛があるように錯覚を覚える。
 香穂子にとっては、何もかもが吉羅が初めての男であったから、何処までが愛で何処までが同情であるかは、解らない。
 せめて言葉と態度が合致していれば良かったのにと、思わずにはいられなかった。
 吉羅に家まで送って貰った後、香穂子は広いアパートメントにひとりになる。
 香穂子はそばに吉羅がいればどんなに幸せなのだろうかと、切なくなった。
 吉羅が帰るまで待つことにする。
 このままなら、来週には吉羅の前から姿を消すのだ。
 そう思うと、やるせないいたたまらない気持ちになった。
 吉羅に自分と同じだけの愛情を注いで欲しいと考えることは、いけないことなのだろうか。
 こんなにも生木を引き裂かれるように切ない吉羅への想いを、いつか解消することが出来るのだろうか。
 香穂子はベッドに横たわりながら、感情的な自分に涙を零した。

 いつの間にか眠っていたらしい。
 目覚めると既に外は暗くなっていた。
 時計を見るともう八時だ。相当の時間眠っていたようだ。
 香穂子はのろのろと起きて、吉羅がストックしておいてくれたレトルトのお粥を食べて薬を飲む。
 そして久し振りのシャワーを浴びて、こざっぱりした。
 幾分か気分が良くなる。
 このまま快方に向かうだろう。
 たっぷりと眠ったので眠くはなく、香穂子は時間を有意義に過ごす為に、DVDを見ることにする。
 いつも見るのは、幸せなロマンティックコメディーばかりだ。
 何も考えずに見られるので、香穂子は時間つぶしによく見ていた。
 吉羅と生活をしていた頃は、何もかもが彼中心に動いていた。
 だが、もうそんなことをしてはならない。
 自分が苦しくなるのだから。
 香穂子は呼吸を整えながら、ただぼんやりと見つめていた。
 いつもならば、DVDを見終わる頃には吉羅が帰って来るのだが、今夜に限っては帰っては来ない。
 何かあったのだろうか。
 不安になりながら、香穂子は、電話の受話器を取っていた。
 数度コールをすると、吉羅の深い声が聞こえてくる。
「香穂子です…。あ、あの…」
 まるで恋を始めた時と同じように、香穂子は緊張の余りに声を揺らす。
「病気なのにこんな時間まで起きているのは感心しない。早く寝なさい」
 吉羅はまるで子どもを叱り付けるように言うと、電話を切ってしまった。
 恐らくは怒っているのだろう。
 吉羅の言うことは一理あると思いながら、香穂子は受話器を置いて、DVDを片付ける。
 そのままソファベッドに入ると、眠るように努めた。
 吉羅はやはり変わらないのかもしれない。
 ここから出ることが出来ないように、今はセキュリティチェックの解除方法を教えてはくれていない。
 だが、間もなく出て行くのだ。
 今度こそ、完全に吉羅とはさよならをしなければならないのだから。
 香穂子は、吉羅にきちんと伝えて開放して貰うしかないと思いながら、再び目を閉じた。

 本当は電話をくれたのが何よりも嬉しかった。
 だが、吉羅は素っ気無い態度しか取ることが出来ないでいる。
 素直に「愛している」とは、なかなか囁くことは難しい。
 吉羅は、本日、パーティの同伴を頼んだモデルを無事に家まで送り届けた後、香穂子の待つ家に向かう。
 香穂子が待っていると解っている家に帰るのは、なんて快適なのだろうかと思う。
 温かな笑顔で癒してくれる香穂子がいるのは、とても幸せな気分だ。
 今まではそれを当たり前だと思っていた。
 だが、今は違う。
 決して当たり前ではないことに、吉羅自身がようやく気付いたのだ。
 だからこそ、今度は失いたくない。
 香穂子をずっとそばに置きたい。
 なのに、香穂子の前では素直にはなれなかった。
 家に戻ると、香穂子はリビングで寝息を立てて眠っていた。
 まだ顔色はかなり悪いが、それでも改善の兆しは見えてきている。
 元気になった暁には、香穂子を思い切り愛するつもりだ。
 これ以上ないとばかりに愛して、自分のこころを伝えるのだ。
 とはいえ、香穂子が消えてしまわないように、これまで以上に大切にしてやりたい。
 吉羅は愛し過ぎる想いを唇に込めて、香穂子に羽根のように甘いくちづけを落した。

 翌日、キッチンの物音で、香穂子は目覚めた。
「…吉羅さん、おはようございます…」
「おはよう、香穂子。顔を洗って来なさい。朝食にする」
「有り難うございます」
 香穂子はパウダールームに向かい、顔を洗って、髪を梳した。
 全くマシにはなってはいない。ただ、子どもっぽいだけだ。
 ダイニングテーブルに着くと、吉羅が消化の良い茶粥を作ってくれていた。
「そろそろ栄養のあるものを食べても構わないだろうから、夕食はしっかり食べなさい」
「…はい。買い物に行って、何か調達して来ますね」
「買い物は駄目だ。君はまだ安静にしなければならない」
 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を見る。
「食べたいものを言いなさい。家政婦さんに買ってきて貰う」
「…はい」
 吉羅の冷たい言葉に、香穂子は頷くしかなかった。



Back Top Next