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この女性は誰なのだろうか。 香穂子は分からずに吉羅を見上げる。 吉羅は相変わらずポーカーフェースのままで、感情を読み取ることは出来ない。 「久し振りだね」 「ええ。おばさま方と空港で偶然お会いして、方向が同じだから、ご一緒させて貰ったのよ。そうしたらお茶をご馳走になって」 女性は屈託ない笑みを、吉羅だけに浮かべている。 誰なのだろうか。 香穂子は訝うように見た。 「香穂子! おかえりなさい。暁彦もおかえり」 母親が玄関先に出てきて、出迎えてくれる。 「まあ、こちらが香穂子ちゃん! 確か…、お会いする予定の日に熱を出して会えなかった…」 女性は思い出したとばかりに頷いている。 香穂子も何となくではあるが思い出した。 小学生の頃、吉羅が付き合っている女性と食事をすることになった時、香穂子はショックで知恵熱を出していけなくなったのだ。 吉羅も結局は香穂子を病院に連れていくことになり、食事会自体がお流れになったのだ。 あの時の相手だ。 あの時の相手だけは、吉羅は真剣に結婚を考えていたと聞いている。 結局はお互いのキャリアを優先するために別れたと聞いていた。 その女がこうして目の前に現れる。 この意味を考えながら、香穂子はゾッとした。 「今、彼女も独身なのだそうよ。積もる話もあるだろうから、話をして帰ったら?」 母親は明らかに吉羅に期待を掛けるようなまなざしを向けている。 香穂子は、母親が彼女ならばと思って連れて来たのだということを肌で感じた。 「暁彦さん、少しお話をしましょうか」 「そうだね。近況を聞かせて貰おうか」 吉羅の言葉に、香穂子は胸が痛くなる。 ここにいられないような気がして、「ごゆっくり」と言ったまま、部屋へと戻っていった。 思わぬライバルの登場に、香穂子は胸が痛くて、視界がブラックアウトするような気がした。 先ほどまではあんなに幸せだったのに。 香穂子が部屋に籠っていると、暫くして吉羅がやってきた。 「香穂子」 吉羅に名前を呼ばれると、素直にドアを開けてしまう。 「彼女は帰ったよ」 「…はい…」 香穂子は、吉羅の目を見られないままに頷く。 「ビジネスの話をしただけだ。ただそれだけだ…。帰り近くまで送っていったが、私には大切な女性がいるときちんと答えておいたよ」 優しい吉羅の声に、香穂子は思わず笑みを零してしまう。 「…拗ねなくて良いから…」 「はい」 吉羅の言葉に、香穂子は素直になる。 「…ごめんなさい…」 「両親には、近いうちに話さなければならないと思っている。この状態は君も嫌だろうからね」 「…有り難う…」 「私は帰るよ。また、連絡する」 吉羅の指先がそっと頬をなぞってくれる。 優しい感覚に、香穂子は笑みを零した。 吉羅と心も躰も結ばれて、香穂子は更に欲張りになってしまう。 それだけでもとても幸せだと言うのに、更なるものを吉羅に求めてしまう。 我ながらわがままだと思う。 香穂子は苦笑いを浮かべながら、自分自身を見つめる。 ようやく手に入れた幸せだから、大事にしようと思いながらも、更なるものを求めてしまう。 それはわがままな感情以外にはないと思っていた。 吉羅に会いに行くために、香穂子は理事長室へと向かった。 理事長室で吉羅は仕事に没頭しているところだった。 「暁彦さん、ヴァイオリンを弾きにきました」 「ああ。有り難う」 吉羅は仕事に神経を集中させながら、耳だけは向けてくれる。 香穂子は、ヴァイオリンを構えるといつものように奏でる。 吉羅との貴重な時間。 それは結ばれる前と後では全くといって良いほどに変わらないものだ。 あれから甘い日常を送れるようになったかっ言われたら、決してそうではなかった。 結ばれる前も後もさして変わりはない。 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は顔をあげて拍手をしてくれた。 「有り難う。君のヴァイオリンは気分転換になるよ」 「有り難うございます」 香穂子は礼を言った後、吉羅を見た。 最近はかなり忙しいからか、吉羅は何処か疲れているようにも見えた。 「…暁彦さん…、お疲れですか?」 「最近、少し仕事が立て込んでいてね、少し疲れが溜まっているのかもしれないね…」 吉羅に会えないからとわがままなんて言えない。 このような状態なのだから。 「…少し休んだほうが…」 「そうしようか…。香穂子…膝枕をしてくれないか?」 吉羅の願い事に香穂子は思わず真っ赤になった。 膝枕。 愛し合ったふたりがすること。 吉羅とは愛し合っているのだから、膝枕をしても何らおかしい事ではないのだ。 「…わ、解りました…」 「じゃあソファに座ってくれないか? 端に」 「はい」 何だかドキドキしてしまい、香穂子はぎこちなく座った。 吉羅はその様子にくすりと笑いながら、香穂子の膝を枕にして、ソファの上にゆったりと横になった。 「少し眠らせてくれ…」 「…はい…」 香穂子が返事をすると、吉羅はゆっくりと目を閉じた。 疲れているのだろう。 本当にひしひしとそれを感じる。 香穂子は、吉羅がたっぷりと休憩が得られるようにと、じっとしている。 そのまま髪を撫でてやりながら、休憩時間を支援した。 吉羅をずっとこうして支えられたら良いのに。 香穂子は祈ることしか、出来なかった。 結局、一時間ほど、香穂子は吉羅の膝枕をしていた。 じっとしていても痺れたりしないのは、大好きなひとを膝枕しているからだろう。 このひと以外は考えられないと、香穂子は思う。 「…有り難う…」 吉羅はゆっくりと躰を起こすと、香穂子をそっと抱き寄せた。 「足は痺れてはいないかね?」 「大丈夫。不思議と」 「だったら良かった」 吉羅は軽くキスをした後、再び自席に戻った。 「じゃあ私は帰りますね」 「ああ。送ることが出来なくて申し訳ない」 「いいえ、大丈夫です」 香穂子は笑顔で言うと、吉羅に小さく手を振った。 家に帰ると、母親が溜め息を吐いていた。 「ただいま」 「…香穂子、おかえりなさい。本当に暁彦ったら相変わらずなんだから困ってしまうわ…」 「何が?」 「この間も昔の恋人を連れてきても駄目だったし、お見合いを勧めても、全部、断るし…。結婚する気はあるのかしらね…。香穂子、あなたもお見合いとかしてみない?」 母親の話を聞きながら、少しニンマリとしてしまう。 「お母さん。私は早いよ」 苦笑いしながら言うと、母親は見合い写真を差し出してきた」 「な、なにっ、いきなりっ」 「あなたも早いうちから男性を見る目は肥えていたほうが良いから、会うだけでも肥やしになるからどうかしら?」 「…充分に目は肥えているつもりだよ。暁彦さんがそばにいるから」 「確かにね、あの子は良い男だとは思うけれど…」 母親としては“完璧”な男ではないらしい。 香穂子は、母親らしいと思った。 「…お母さんもお父さんも、早目に孫を見たいんだけれどねえ…」 母親はしみじみと言っている。 香穂子はついくすりと笑った。 「まあ、こんなことを言っていてもしょうがないわね。ご飯にしましょうか」 「はい」 香穂子は夕飯の手伝いをするために、母親とキッチンに向かった。 吉羅が見合いをことごとく断ってくれたのが、とても嬉しい。 香穂子は、機嫌よく夕食の手伝いをする。 吉羅とふたりの子供を両親に見せたいと思いながら。 |