5
今まで何度となく吉羅には抱き締められた。 だが、今回の抱擁が最もキツくて、官能的だった。 息が出来ないほどに強い抱擁に、香穂子は溺れてしまいたくなる。 「…私は…、君を一度として子供だと思って扱ったことはないよ…」 吉羅の低くて甘い囁きに泣きそうになる。 「…香穂子…、私は…」 吉羅は香穂子のまなざしを見つめると、しっかりと抱き寄せてくれた。 甘い抱擁。 本当に極上のケーキを食べた時よりも甘いと、香穂子は思う。 ふたりが静かに抱き合っていると、不意に自動車のライトがふたりを照らし、そのまま走り去った。 明かりに驚いたのと同時に、吉羅は何処か醒めたまなざしに戻った。 そのまま香穂子から離れると、ハンドルを握り締めて、車を再び走り出した。 吉羅は何事もなかったかのように、車を自宅まで走らせる。 香穂子はそれが寂しくてたまらなかった。 吉羅の家に入り、香穂子は客間に通される。 今までかなり長い間、“兄妹”として生活をしてきたというのに、香穂子が吉羅のテリトリーに入るのは初めてだった。 吉羅はずっと香穂子を、大切な部分には寄せ付けなかった。 いつも妹想いの兄でいてくれたが、肝心の部分には立ち入らせては貰えなかった。 「香穂子、君はここを自由に使うと良い。防音になっているから、家と同じようにヴァイオリンの練習をしても構わない」 「有り難うございます」 吉羅はまたいつものように冷たい態度に戻ってしまう。 本当にクールだ。 あの情熱的な抱擁もすっかり陰を潜めていた。 「バスルームを自由に使いなさい。ただし、私と君がシェアする形になるから、その点だけ注意をしてくれたまえ」 「はい。解りました」 「では、ゆっくりとバスタブにでも漬って、今夜は眠りたまえ。風呂の準備はしておくから」 「はい。有り難うございました」 吉羅がいなくなってひとりになると、ごく自然に溜め息が出た。 吉羅は、先ほど起こったことなど、ただの出来事だと思っているのだろう。 先ほどまでの情熱が一気に冷めているのがその証のような気がした。 香穂子はベッドに上がると、溜め息を着いて大の字で横になる。 これから短い間ではあるが、吉羅に世話になる。 同じ家に住むことには変わりはない。 香穂子は緊張と甘いと苦しみで一気に胸が痛むのを感じていた。 先ほどは思いがけずに香穂子を抱き締めてしまった。 その柔らかな抱き心地や、男を誘うように薫る甘い匂いは、吉羅を誘惑しているようにしか見えなかった。 こんなにも夢中になって誰かを抱き締めた覚えは今までない。 本当に夢中になってしまった。 これ以上ないぐらいに熱を帯びていた。 もう、両親に気兼ねなどをしている場合ではないのかもしれない。 香穂子が他の男に取られてしまうぐらいならば、急がなければならない。 もうそんな時期にきているのだということを、吉羅は改めて思い知らされてしまった。 吉羅はもう、香穂子への想いが止められやしないことに気付いていた。 今夜は眠れそうにない。 本当に手を伸ばせば、香穂子を抱き締められる。 だが、それをしてしまえばどうなるというのだろうか。 親への気兼ね。 そして香穂子が吉羅を受け入れなかった時に、どのように過ごしていけば良いのか。 本当に様々な想いが吉羅の心の中で交錯しているのは事実だった。 お風呂に入りながら、香穂子は甘い溜め息を吐く。 これからのことを考える。 このままずっと妹ではいられないことぐらい解っている。 ひとりの女性として吉羅を求めているのだから当然だ。 吉羅とはずっと恋をしていたい。 たとえどのような状況でもだ。 香穂子はしみじみとそう思った。 入浴をした後、香穂子は吉羅に声を掛けに部屋へと向かった。 その途中で吉羅と顔を合わせる。 「お風呂終わったから」 「ああ」 吉羅はあっさりと言うと、バスルームに向かった。 香穂子は、そのまま客間に向かったが、吉羅のことを意識し過ぎてしまい、余り眠ることが出来なかった。 翌朝、張り切って朝食ぐらいは作ろうと思ったが、吉羅のほうが起きるのが早くて、朝食を作ってくれていた。 「茶粥だが朝食は出来ている。早く食べて、大学に行きなさい」 「あ、有り難うございます…」 昨日のキスが幻だったと言わん許りに、吉羅の態度はかなり冷たかった。 香穂子はそれが切なくて、俯く。 吉羅にとってはキスなんて意味のないことなのだろうか。 香穂子にとっては深い深い意味があるというのに。 「今日は仕事が遅くなる。夕飯は、私が指定をしたレストランで食べなさい。時間も指定する。それを食べたら家に戻って、先に寝なさい。良いね」 何だかスケジュールにがんじがらめになっているような気がする。吉羅に監視されているような気がしてならなかった。 香穂子は吉羅を厳しいまなざしで見る。 「自由な時間半ないんですか?」 香穂子の言葉に、吉羅は眉を顰めた。 「…自由? 君は両親からの大事な預かりものだからね」 大事な預かりもの。 その一言に、香穂子は唇を噛む。 やはりその程度としてしか思っては貰えないのだ。 吉羅にとってキスは大したことではないということだ。 香穂子は気持ちが沈んでいくのを、肌で感じていた。 「これがミールチケットだ。こちらをレストランに持っていくように。会計はいらない」 「はい…」 チケットを見ると、香穂子でも知っているようなかなり有名な高級店だった。 香穂子は沈んだ声で礼を言うと、チケットを鞄の中に入れた。 大学が終わり、香穂子は言われた通りにレストランに向かった。 これからの十日間は、ずっとこのようにして過ごすのだろうか。 それだと余りにも哀しすぎる。 香穂子は苦々しい思いで思った。 吉羅は、香穂子がきちんとレストランに訪れたかを、きちんと確認をした。 そんなことしないほうが良いのだろうが、香穂子が安全で安心していられるためには、そうせずにはいられなかった。 本当は、吉羅が、安心していられるからに他ならない。 香穂子が他の男のものにならないように監視してしまう。 両親の目がない十日間は、いつもにも増して厳しくしなければならないだろうと吉羅は思っていた。 早く帰って香穂子と過ごせば良いだけの話なのだが、実際はそうはいかなかった。 早く帰ろうと思えば帰ることは出来るし、香穂子とのんびりした時間を過ごすことも可能だ。 だが、穏やかに何もなく過ごす自信が、吉羅には全くといって良いほどになかった。 このまま香穂子と一緒にいれば、キスだけでは済まなくなるということを、吉羅は充分に解っていたのだ。 それゆえに、香穂子から離れなければと考えていた。 吉羅は、香穂子と一緒に過ごしたいと想う。 だが、今の状況では、そういうわけにはいかなかった。 香穂子と一緒にいれば、男としてただでは済まない。 そのギリギリのところにいるのだ。 そのことは、恐らくは香穂子には解らない。 それゆえに離れたのだ。 吉羅はレストランに連絡をする。 するときちんと時間通りに香穂子が現れたことを確認することが出来た。 吉羅はそれにホッとする。 誰にも渡したくはない。 吉羅にとっては、香穂子は最高の女性に違いはなかったから。 束縛したくはないのに束縛をしてしまう。 吉羅は自分の独占欲の強さに、どうして良いのかが分からなかった。 |