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香穂子はある程度成長をしたヴァイオリニスト独特の悩みを口にしながら、軽く溜め息を吐いていた。 まだ音楽界をよちよちと歩き始めた赤ちゃんと同じだ。 更に力をつけていかなければ、厳しい世界ではやっていくことが出来ない。 有力な師について個人レッスンをするのが効果的だろうが、一般家庭に育った香穂子には、そこまでの経 済力はない。 個人レッスンなんて夢のまた夢なのだ。 「君の音を聴かせて貰って、どのような種類のサポートが必要かを判断しよう」 吉羅はあくまで冷静に言う。 吉羅にヴァイオリンの音色を気に入って貰えたら、道は開けるかもしれない。 それに大好きなひとに気に入って貰えるのが何よりも嬉しい。 「有り難うございます」 香穂子は笑顔で言うと、吉羅に感謝のまなざしを送った。 吉羅の口許にほんのりと笑みが滲む。 香穂子は、吉羅の艶やかな横顔を見つめながら、このひとにならば総てを預けられるような気がした。 音楽のこと、大学のことなど、香穂子は様々な話をし、吉羅はそれを静かに聞いてくれた。 まるで香穂子のこころごと包み込んでくれるようで、とても嬉しかった。 有意義に時間は過ぎ、想像していたよりもずっと時間は経過していた。 この後、公園でヴァイオリンを弾く時間がなくなってしまうほどに、夢中になった時間。 香穂子は時計を見ながら、しまったと思う。 今から急いで教会に行ったとして、ギリギリだ。 大好きなひとにヴァイオリンを聴いて貰いたいが、こればかりはしょうがなかった。 時計を見ながら香穂子は、こころのなかで溜め息を吐く。 こんな言葉は告げたくはなかったが、致し方がなかった。 「吉羅さん、申し訳ありませんが…、これから予定があって、直ぐに行かなければなりません。次回こそ、必ずヴァイオリンを弾きますから、申し訳ありませんが、これで失礼させて頂いて構わないですか…?」 明らかな失望をこころに感じながら、香穂子は言う。 どうか、どうか嫌われませんように。 それしかない。 だが、吉羅は呆れ果てたように、溜め息を吐いた。 きっと勝手な今時の女だと思われたことだろう。そう思われても仕方がないのは解ってはいる。 だが、切ない。 こんなにも泣きそうになる感情なんて、他にはないと思ってしまう。 吉羅は冷たい月のような瞳を香穂子に向けてくる。 それが胸に突き刺さって痛い。 泣きたいが泣く訳にはいかない痛みだった。 香穂子は何とか自分の切ない感情を抑え込むと、吉羅を見る。 些かまなざしが強張っていたかもしれない。 「解った。急ぎたまえ」 吉羅はまるで香穂子を追い払うように言い、忌々しいものを見るようなまなざしを向けてくる。 このまま崩れ落ちてしまいそうなのに、そうすることが出来なかった。 「はい、有り難うございます」 これ以上ここにいると、胸が痛くて死んでしまうのではないかと思ってしまう。 香穂子は逃げるように一生懸命駆け出すと、教会へと向かう。 吉羅に完全に嫌われてしまった。 こんなにも厳しいことはない。 香穂子はこころの奥から哀しみと怒りがが湧き上がるのを感じる。 吉羅に嫌われることしか出来ない自分が、嫌でしょうがなかった。 あれから吉羅からは一切連絡はない。 恐らくは勝手な香穂子への興味を完全に失ってしまったのだろう。 そう思われても当然だ。 なのに、こころの何処かで期待を抱いてしまう自分がいる。 吉羅がひょっこりと連絡をしてくれるのではないかと思ってしまう。 甘いのは解っている。 だが、期待せずにはいられなかった。 香穂子は、携帯電話を確認する度に、吉羅からの連絡が一切入っていないことを、苦々しく思う。 もう連絡なんてありはしないだろうに、それでも期待をしてしまう自分が嫌だった。 「…どうして、連絡をくれないんですか…?」 携帯電話に八つ当たりをしてもしょうがないのは解っているのに、気休めのようにそうせずにはいられない自分が嫌で嫌で堪らなかった。 香穂子は、何度目か解らない、それこそ数えたら恐ろしくなるような溜め息を吐くと、ベッドに倒れこんだ。 つい俯せで横になってしまう。 「…どうしたら良いのかな…、私…」 俯せで眠るのは深刻な恋愛をしている証拠だと、何かで見たことがある。 今ほどそれが当てはまることはないのではないかと、香穂子は思った。 吉羅から連絡がないままでかなり過ぎた。 ここまで連絡がないならば、吉羅のことなどスッパリと諦めなければならないだろう。 香穂子は、学内で組んでいるアンサンブル仲間と一緒にキャンパスを歩きながら、そろそろ元気にならなければと思っていた。 アンサンブルの仲間たちや、友人に随分と支えられている。 だから彼等の前では、笑顔でいられた。 彼等と話すと楽しいし、無駄に落ち込む暇などないから、とても助かっている。 大切な仲間だった。 不意に誰かがこちらを見ているような気がして、ハッとして香穂子は気配があった方向へと視線を向けた。 だがそこには誰もいない。 ただ日だまりがあるだけだった。 まさか。 吉羅がこちらを見ていたかもしれない。 それだったらどんなに嬉しいかと香穂子は思う。 だがそれは、吉羅のことばかりを考えているから錯覚したのではないかと、香穂子は考えていた。 講義が終わった後、担当の金澤から手招きを受け、教卓前へと向かう。 「日野、呼び出しだ。相手は吉羅理事。応接室にいるから訪ねて行くように。今日は理事会だから学院に来ているんだ」 金澤は無造作に香穂子に呼び出し状を手渡してくれる。 それを受け取る時、香穂子は鼓動がチャイムよりも高鳴るのを感じた。 「行きます! 有り難うございます!」 香穂子は金澤に頭を下げると、足早に応接室へと向かった。 吉羅に逢える。 ただそれだけでも嬉しかった。 ときめきのリズムを鼓動が刻んで、香穂子を幸せな気分にさせてくれる。 それが嬉しかった。 応接室のドア前に立つと、ひどく緊張する。 だがそのようなことは、おくびにも出してはならない。 香穂子は凜と背筋を伸ばすと、ドアをノックした。 しっかりとしたノック音が響き渡り、香穂子の緊張もいやがおうでも高まる。 香穂子はいつもよりも幾分か力強い声で、ゆっくりと口を開いた。 「理事、日野です」 「入りたまえ」 「失礼致します」 香穂子はわざと凛々しいが何処か優しげな声で言いながら、ゆっくりと応接室へと入る。 応接室の正面に、隙がないほどに素晴らしい魅力を湛えた吉羅が、堂々と立っていた。 夕陽が真っ直ぐに応接室に入ってきて、吉羅を美しく照らす。 その姿はまるで太陽神アポロン神ようで、美し過ぎて目を見張った。 唇が僅かに震えてしまう。 こんなにも素晴らしい男性に、今まで出会ったことはないと思ってしまう。 恋心が極限に高まった瞬間だった。 「吉羅理事、こんにちは。御用でしょうか?」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は僅かに口角を歪めるように笑う。 香穂子のこころに、吉羅がしっかりと入り込み、すべてになった瞬間だった。 吉羅に見つめられている。 それだけで世界が薔薇色になる。 香穂子にとっては、それほどまでに幸せなことだった。 吉羅と恋がしたい。 恋がしたくてしょうがない。 強く思いながら、香穂子は吉羅をただ真っ直ぐと見つめていた。 |