*恋する惑星*

11


「日野君、掛けたまえ」
 吉羅が声を掛けると、香穂子は頷いて、少し浅めに腰を下ろした。
「君に伝えたいことがあってね」
 吉羅はゆっくりとした口調で言いながら、ソファに腰を下ろした。
 こちらを見ている香穂子は、本当にきらきらと輝いていて魅力的で、思わずじっと見つめてしまう。
 見つめているだけで楽しくて、幸せな時間を過ごせる相手は、今までいなかった。
 そういう意味でも、吉羅にとって香穂子は貴重な存在だと言えた。
「君がこれからもヴァイオリニストとして成長をし、厳しい世界を泳いでいく為にも、更なる技術的な向上が必要だろう。そこで、君に個人レッスンを着けようと思うが、異論はないかね?」
 吉羅はちらりと、香穂子の様子を伺うように見つめる。
 最初は、思いがけないこととばかりに、びっくりしたような顔をしていたが、直ぐに喜びを噛み締めるような笑顔へと変わった。
 その笑顔が、余りにも純粋で眩しくて、吉羅の魂は強く揺さぶられる。
 この場で抱き締めたくなるほどに、愛しい笑顔だった。
「…嬉しいです…! とってもとっても嬉しいです! 個人レッスンなんて夢のまた夢だと思っていましたから、とても嬉しいです! 有り難うございます!」
 嬉しさの余りに震えて弾む香穂子の声が愛しくてしょうがない。
 吉羅は、こんなにも守りたい笑顔は他にないのではないかと思った。
「レッスンの詳細はこちらだ。講師をして下さるヴァイオリニストは多忙だから、こちらがスケジュールを合わせることになる。構わないね」
 香穂子に詳細を書いた資料を渡すと、更に瞳ぎ見開かれる。
 ヴァイオリニストを目指す者ならば誰もが憧れるヴァイオリニストが、特別講師なのだから当然だ。
「本当に構わないんですか!? 私、もの凄く嬉しいです!」
 香穂子は本当に今すぐに飛び上がってしまうほどに喜んでくれている。
 こんなにも喜んでくれるのが、吉羅は何よりも嬉しかった。
「来週からレッスンに入って貰うからそのつもりで。しっかりと励みたまえ」
「はい! 有り難うございます! こんなにも幸せなことはないです」
 香穂子の明るく屈託ない声と表情に、吉羅は目を細めた。
「話はそれだけだ。これから君には頑張って貰わなければならないからね」
「はい」
 香穂子が立ち上がろうとしたところで、吉羅は制するように見る。
 まだ一緒にいたい。
 この笑顔を独占していたかった。
「日野君、これから時間はあるかね?」
「大丈夫です。今日は久し振りにアルバイトもない日ですから」
「そうか。では、済まないが一曲奏でてくれないかね」
「はい、喜んで」
 香穂子は頷くと、ヴァイオリンをケースから出して構えた。
 普段はあどけない表情をするというのに、こうしてヴァイオリンを構える時は、ひどく大人びた女に見えるから不思議だ。
 成熟した情熱的な大人の女の部分と、イノセントな少女の部分が同居した、とても稀有で美しい女性だ。
 香穂子は集中するように深呼吸をすると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 香穂子が奏でたのは“だったん人の踊り”
 吉羅が好きなナンバーだ。
 沢山のバージョンのこの曲を聴いてきたが、一番しっくりといく解釈だった。
 すんなりとこころに入り込んでくる音色だ。
 ヴァイオリンの音色に酔い痴れるなんて、姉の音色を聴いて以来かもしれない。
 温かく清らかな音色は、疲れたこころも躰も癒してくれる。
 何よりもの“癒し”だ。
 吉羅は、どの音も、どの表情も見逃すのが勿体なくて、聴覚と視覚を研ぎ澄ませて、集中していた。
 香穂子は演奏を終えると、大きな溜め息を吐く。
 ホッとしたのだろう。清々しい笑顔だった。
 吉羅は一拍終えてから、香穂子に拍手を送る。
 本当は甘く絶讃してやりたいが、それでは香穂子の成長にはならない。
 自分の個人的な評価は捨て置くことにして、吉羅は香穂子を冷静に判断することにした。
「教会でのチャリティーコンサートの時よりは上手くなった。向上することは素晴らしいことだ。だが、プロのレベルと比べればまだまだだ。もっとしっかり励みたまえ」
 吉羅は、自分がかつてヴァイオリニストの端くれであったことや、身近にいた姉の存在、そして数多くの最高のヴァイオリニストの音色と接してきたからこそ、冷静な判断が出来た。
「有り難うございます。これからも頑張ります」
 香穂子の素直な物言いに、吉羅はまた微笑んでしまう。
 前向きで素直なところが、香穂子の最大の長所だと思う。
「日野君、今から時間があるのなら、夕食を一緒にしないかね?」
「喜んで」
 香穂子が即答してくれたものだから、吉羅のこころは益々弾む。
 香穂子と食事をするだけのことなのに、華やいだ気持ちになっていた。

 香穂子を駐車場に連れて行き、助手席に乗せる。
 隣に香穂子がいるだけで、何時も以上に運転が楽しくなった。
 吉羅が香穂子の為に選んだ店は、ジプシーアンサンブルの生演奏が楽しめるレストラン。プロの良い音を、沢山生で聴いて貰いたかった。
 香穂子の成長に繋がるだろうから。
「あ、あの、こんなに高級レストランで構わないんですか?」
「君は何も心配しなくて良いんだ。良い音楽と良い料理に接することで、更なる成長が出来るからね」
「有り難うございます」
「何事も一流に触れるのは良いことだよ」
「はい」
 香穂子は素直で何でも聞いてくれるから、こちらとしても話していて楽しい相手だ。
 相手に同意をしながらも、芯が強く、自分の意見を持っているところも好感が持てた。
 香穂子とふたりでレストランに入り、席に着く。
 最初は少しばかり落ち着けないでいたようだが、料理が運ばれてくる頃には、レストランに馴染んでいた。
 運ばれてきた料理を嬉しそうに食べる香穂子を見つめながら、吉羅は幸せな気分になる。
 香穂子は、相手を喜ばせる表情をごく自然に浮かべるのが上手いのだと思った。
「本当に美味しいです」
「それは良かった」
 吉羅はずっと微笑みっぱなしなのではないかと思いながら、温かで幸せな気分を、久し振りに味わっていた。
 最初は、吉羅との会話を楽しんでいた香穂子だったが、ジプシーアンサンブルの演奏が始まると、食事もそっちのけで聞き入る。
 吉羅は苦笑いをしながら、香穂子の様子を観察していた。
 音楽に負けてしまったが、ヴァイオリニストを目指す香穂子にはしょうがないことなのだろう。
 星奏学院理事としては喜ばしいことなのだが、ひとりの男としては、音楽に嫉妬をしてしまいそうだ。
 香穂子が音に夢中になるのを横目で見ながら、吉羅は食事を続ける。
 音楽の間に、香穂子には声を掛けた。
「日野君、折角の料理が冷めてしまうから、今のうちに食べなさい」
「有り難うございます! 余りに演奏がロマンティックで素晴らしかったから、つい聞き入っちゃいました」
 香穂子は苦笑いを浮かべると、元気よく食事をし始めた。

 デザート時間になって、ジプシーアンサンブルの演奏が終わり、香穂子は微笑んだ瞳で吉羅を見つめる。
「吉羅理事、有り難うございます。本当に素晴らしい演奏とお料理、どちらも最高でした!」
「それは良かった」
 香穂子の笑顔を見ているだけで、吉羅は幸せが天から無数に下りてくるような気がしていた。
 最高の時間だ。
 至福の時間に、吉羅は酔い痴れていた。



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