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吉羅はいつ見ても完璧だ。つい見とれてしまう。 「日野君、掛けたまえ」 吉羅に声を掛けられてハッ我にかえると、香穂子は何とか頷き、少し浅めに腰を下ろした。甘くて嬉しい緊張が、躰に漲るのが解る。 「君に伝えたいことがあってね」 吉羅はゆっくりとした口調で言いながら、ソファに腰を下ろした。 その仕草も目が離せないほどに完璧だ。 こちらをちらりと見る吉羅は、本当にきらきらと輝いていて魅力的で、思わずじっと見つめてしまう。 見つめているだけで楽しくて、幸せな時間を過ごせる相手は、今までいなかった。 そういう意味でも、香穂子にとって吉羅は夢のような存在だと言えた。 「君がこれからもヴァイオリニストとして成長をし、厳しい世界を泳いでいく為にも、更なる技術的な向上が必要だろう。そこで、君に個人レッスンを着けようと思うが、異論はないかね?」 吉羅はちらりと、香穂子の様子を伺うようにクールに見つめてくる。 個人レッスン。 経済的にかなり辛いと思って、今まで諦めてきた。 それが出来るなんて、なんと幸せなことなのだろうかと思う。 話を聞いた一瞬は、本当に、びっくりしたが、直ぐに喜びへと変わった。 笑顔がごく自然と溢れ出る。 素直に笑みを浮かべると、吉羅は、一瞬、目を見開いた。 これぐらいのことでそんなに喜ぶのかと言いたげに。 だが純粋に嬉しかった。 「…嬉しいです…! とってもとっても嬉しいです! 個人レッスンなんて夢のまた夢だと思っていましたから、とても嬉しいです! 有り難うございます!」 嬉しさの余りに思わず声が震えてしまう。 吉羅の表情が、一瞬、見守るように変わる。大きな優しさが滲んだ表情に、香穂子は胸を突かれた。 その表情を見るだけで、恋心は切なく燃え上がる。 「レッスンの詳細はこちらだ。講師をして下さるヴァイオリニストは多忙だから、こちらがスケジュールを合わせることになる。構わないね」 吉羅は優しげな表情を引っ込めると、香穂子に詳細を書いた資料を渡す。 何気なく視線を書類に落として、香穂子は更に驚く。 目を見開いて書類を見ながら、震えてしまった。 ヴァイオリニストを目指す者ならば誰もが憧れるヴァイオリニストが、特別講師なのだ。 こんなにも幸運で良いのだろうかと、思わずにはいられなかった。 「本当に構わないんですか!? 私、もの凄く嬉しいです!」 香穂子は本当に今すぐに飛び上がってしまうほどに嬉しくて、満面の笑顔を吉羅に向ける。 「来週からレッスンに入って貰うからそのつもりで。しっかりと励みたまえ」 「はい! 有り難うございます! こんなにも幸せなことはないです」 香穂子が明るく屈託ない表情を浮かべると、吉羅は目を細めた。 「話はそれだけだ。これから君には頑張って貰わなければならないからね」 「はい」 香穂子が立ち上がろうとしたところで、吉羅は制するように見る。 そのまなざしは香穂子のこころを捕らえる。 まるでまだ一緒にいたいと言って貰えているように思えるのは、吉羅に恋をしているからだろうか。 このクールな横顔を独占していたかった。 「日野君、これから時間はあるかね?」 「大丈夫です。今日は久し振りにアルバイトもない日ですから」 今日の午後が珍しいフリーで良かったと思う。 「そうか。では、済まないが一曲奏でてくれないかね」 「はい、喜んで」 香穂子は頷くと、ヴァイオリンをケースから出して構えた。 吉羅に聴いて貰いたい。 誰よりも自分の音色を気に入って貰いたかった。 ヴァイオリンを構えると、いつもこころが研ぎ澄まされる。 普段はあどけない子供の自分が、大人の女変身出来る瞬間でもある。 成熟した情熱的な大人の女の部分をヴァイオリンだけでも良いから表現したかった。 香穂子は集中するように深呼吸をすると、ヴァイオリンを奏で始める。 香穂子が選んだのは“だったん人の踊り” 香穂子が好きなナンバーのひとつだ。 解釈が難しかったが、それ故にやり甲斐のある曲でもある。 すんなりとこころに入り込んでくる厚い音色を作ることが出来ればと、思わずにはいられない。 どうか吉羅のこころに真っ直ぐ届きますように。 どうか吉羅のこころに温かく響いて疲れたこころわ躰を癒す糧になりますように。 それだけを願って、香穂子はヴァイオリンを奏でた。 どの音も丁寧に大切に演奏をし、自らの感覚を研ぎ澄ませて、集中する。 ただ吉羅の為に、香穂子はヴァイオリンを一途に奏でた。 演奏を終えると、香穂子は大きな溜め息を吐く。 無事に演奏し終えることが出来て、正直言って、ホッとした。 清々しい気分で笑顔になる。 演奏が終わった直ぐ後、吉羅は黙っていた。 一瞬、気に入らなかったのかと思い、香穂子はかなり不安になった。 だが、一拍置くと、吉羅は香穂子に拍手を送ってくれた。 それが嬉しかった。 どのような甘い絶讃よりも、温かで素朴な吉羅の拍手がこころに染み入る。 吉羅のことだ。かなり冷静に判断してくれたに違いない。 それもまた香穂子にとっては嬉しいことだった。 冷静な評価。 それこそ最も欲しいものであるから。 「教会でのチャリティーコンサートの時よりは上手くなった。向上することは素晴らしいことだ。だが、プロのレベルと比べればまだまだだ。もっとしっかり励みたまえ」 吉羅の評価は、香穂子が思っていた以上に厳しいものだった。 だがそれが今の実力だ。 しょうがないことだ。 香穂子は冷静にそれを受け入れると、更なる決意をする為に強く頷く。 上手くなる為に、吉羅は香穂子が望むものを手配してくれたのだから、自分もそれに応えなければならないと思う。 覚悟が決まった。 素直に一生懸命頑張る。 それだけだ。 「有り難うございます。これからも頑張ります」 香穂子は素直に力強く自分の気持ちを言うと、吉羅は薄く微笑んでくれる。 それが嬉しかった。 「日野君、今から時間があるのなら、夕食を一緒にしないかね?」 「喜んで」 香穂子が嬉しくて即答しすると、吉羅は僅かに微笑んでくれた。 それがまたこころの宝物になる。 香穂子と食事をするだけのことなのに、華やいだ気持ちになっていた。 吉羅は香穂子を駐車場に連れて行き、助手席に乗せてくれる。 隣に吉羅がいるだけで、最高のドライブになることは間違なかった。 吉羅が香穂子の為に選んだ店は、ジプシーアンサンブルの生演奏が楽しめるレストラン。横浜で三本の 指に入る高級レストランで、行きたくても香穂子の経済力では到底無理なところだ。 こんな場所に連れて行かれると、やはり緊張してしまう。香穂子は落ち着かなくて、不安げに吉羅を見た。 「あ、あの、こんなに高級レストランで構わないんですか?」 こちらがうろたえても、吉羅はクールだ。 「君は何も心配しなくて良いんだ。良い音楽と良い料理に接することで、更なる成長が出来るからね」 「有り難うございます」 素直に礼を言うと、吉羅は頷いてくれた。 「何事も一流に触れるのは良いことだよ」 「はい」 本当に香穂子の為に最高のお膳立てをしてくれる。 それを素直に受け取りながら、吉羅といるだけで、ヴァイオリニストとしてはもちろんのこと、人間として、女として成長出来るような気がした。 だからこそ吉羅に同意をしながらも、自分の意見をしっかり伝えたかった。 そうすることが成長に繋がるだろうから。 吉羅にエスコートをされてレストランに入り、席に着く。 初めての高級レストランで、最初は少しばかり落ち着けなかったが、料理が運ばれてくる頃には、レストランに馴染んでいた。 運ばれてきた料理はどれも本当に美味しくて、食べる度に幸せな気分になる。 きっと目の前に吉羅がいるからだろうと、香穂子は思っていた。 |