*恋する惑星*

13


 今日は、経済界の大事なパーティが、横浜の有名な外資系ホテルで開催される。
 吉羅にも勿論招待状が届き、行くことにした。
 これもビジネスだ。それ以上も以下もない。
 生産性のないパーティなら、正直言って行きたくはない。
 だが、今回は経済人としてはかなり大切なパーティだ。
 吉羅は、いつものように美しい経済界に通じている女性に同伴を頼み、パーティ会場へと向かった。
 いつものように退屈な挨拶を聞いていると、給仕係の面々を見て目を見開く。
 給仕係が整列している端に、香穂子が背筋を伸ばして立っているのが見えた。
 まさかこのような場所でアルバイトをしているとは思わなかった。
 給仕係の制服すらも気品があって似合っていると思うのと同時に、どうしようもなく苛立っていた。
 香穂子のきらめくような美しさを、誰にも見せたくはなかったから。
 こんなにも独占欲が大きいなんて、今まで思ったことはなかった。
 自分自身、この感情に驚いてしまっているほどだ。
 吉羅はじっと香穂子を見つめる。
 相変わらずの愛らしさだ。
 香穂子は吉羅の存在に気付いていないからか、何処か遠くを見ていた。
 財界人の楽しくもないスピーチを聞き流しながら、吉羅は香穂子の姿をじっと追いかけていた。
 スピーチが終わり、パーティの本格的な勝負の時間が始まる。
 このためにパーティに来たというのに、意識は香穂子にいってしまう。
 乾杯の時も、吉羅とは違うテーブルを担当していたので、香穂子と話す機会はなかった。
 吉羅は香穂子に挨拶だけでもしようとして、声を掛けようとしたが、それも出来ない。
 様々な財界人が声を掛けてきたからた。
 その上、隣にいる女がずっと着いてくるものだから、香穂子に声を掛けるチャンスを逸してしまっていた。
 遠くから見える香穂子は、一生懸命働いている。
 その大車輪ぶりは、とても好ましい。
 香穂子をサポートする先輩給仕係が、夢中になるように見つめていたのがかなり気に入らなかった。
 こんな風に嫉妬してしまうなんて、今までの吉羅では考えられなかったことだ。
 本当に香穂子に夢中になってしまっている。
 そんな自分に苦笑いを浮かべざるをおなかった。
 ようやく話が一区切りついた。
 香穂子とほんの一瞬でも話がしたい。
 だが、女は相変わらず吉羅の横にいて、まるで監視をしているかのようだ。
 この視線が堪らなく窮屈だった。
 吉羅が香穂子の様子を見ていると、こちらにやってくるのが見えた。
 香穂子をじっと見つめていると、一瞬だけ笑顔をくれたものの、後は少し切ないような顔をした。
 香穂子は吉羅がいるテーブルにやって来ると、愛らしく頭を下げた。
 空いた皿を手早く片付けている。
「日野君、仕事に精が出るね? アルバイトかね?」
 吉羅が声を掛けると、香穂子は視線を合わせてはこない。
 今日はいつも以上にかたくなだと思いながら、吉羅はその様子を眺めていた。
「…今日はアルバイトの日なんです。ここは時給が良いから…」
 香穂子はたどたどしく言うと、手早く皿を片付けようとした。
「あっ…!」
 皿のうちの一枚を手から滑らせて粉々にしてしまい、香穂子は泣きそうになっている。
 吉羅は直ぐに華奢な手首を握り締めると、香穂子を覗き込んだ。
「指先に怪我はないかね!」
 吉羅が指先に視線を這わせると、ほんの少しではあるがうっすらと血が滲んでいるのが見えた。
 指先は、ヴァイオリニストとしては大切な部分だ。
 それを怪我してしまうなんて大事だ。
 吉羅は直ぐに別の給仕係を呼ぶと、片付けるように指示をする。
「私がやったんですから、私が片付けますっ」
 香穂子が早口で言って手を出そうとしたが、吉羅はそれを阻止した。
 香穂子の指先を手当てすれほうが先決だからだ。
「君は指を手当てするんだ。私がやろう」
 吉羅の強引なやり方に、香穂子が戸惑っているのは確かだった。
 だがそんなことなど言ってはいられない。
 ヴァイオリニストの指先なのだから。
「少し来なさい」
「あ、あのっ! 吉羅理事、私は仕事中です!」
「アルバイトよりも、ヴァイオリニストとしての君の指先のほうが、私は余程大切だと思うけれどね」
「…吉羅理事…」
「直ぐに手当てをしよう。このホテルには知り合いが多いからね。救急箱を借りることが出来るだろうからね」
「…はい…」
 吉羅の有無言わせない強引なやり方に、香穂子は諦めたのか、溜め息を吐きながら着いてきた。
「…吉羅さん、有り難うございます」
 香穂子が困ったような笑顔で礼を言ってくれたのが、吉羅には嬉しくてしょうがなかった。

 フロントで救急箱を借りて、吉羅は香穂子をVIP用のサロンに連れていく。
 そこのソファに座らせると、香穂子の指先を手に取った。
 すらりとしたヴァイオリニスト特有の綺麗な指先だ。
 吉羅は指先に視線を這わせると、血が滲んだ中指を唇に持っていった。
「…んっ…!」
 血を吸い上げるだけなのに、香穂子はたっぷりと甘い声を上げる。それがまた可愛いと吉羅は思った。
 僅かに震える純粋ぶりは、吉羅の恋情を更に強くさせる。
「…君は本当に…」
「…吉羅理事…」
 吉羅は香穂子の指先に消毒薬をつけた後、手早くバンドエイドを貼った。
「これで大丈夫だ」
「有り難うございます…」
 香穂子は耳まで紅くするようなはにかみの表情を浮かべた後、軽く頭を下げてくれた。
 その仕草がまた可愛いかった。
「さあ、戻ろうか」
「…はい。有り難うございました」
 吉羅に礼を何度も言う香穂子が、とても愛しい。
 香穂子のヴァイオリンの音色は、彼女の資質による部分が大きいのだろうと、吉羅は改めて感じていた。
 パーティ会場に戻り、香穂子は直ぐに仕事へと戻る。
 アルバイト仲間や社員スタッフに頭を深々と下げている様子を見て、少し見境のない行動をしたかと思う。
 だが、そうせずにはいられないほどに、香穂子が心配だった。
 クールな理性が全く役だたないほどに、香穂子を愛しく思ってしまっているのだろう。
 吉羅は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 香穂子が絡むと、少年のような気持ちになると同時に、巨人のような気分にもなる。
 それが“恋をしていること”であることを、吉羅はようやく気付いた。

 パーティが終わり、吉羅は同伴して貰った女性には、仕事があると理由をつけて、タクシーチケットを渡した。
 冷たい対応だとは思ったが、香穂子を送り届けるという想いが勝った。
 吉羅は、顔見知りのスタッフに従業員用の出入り口を訊き、そこの前で待つ。
 こんなストーカーまがいなことをするのは、初めてだ。
 吉羅は香穂子が現れるのを、まるで初恋の相手を待つ小学生のような気分で待った。
 香穂子が現れると、やはりこころはときめく。
「吉羅さん…」
 香穂子は一瞬驚いていたようだが、直ぐに吉羅に笑顔を向けてくれた。
「送ろうかと思ってね」
「お連れの方はよろしいんですか?」
 香穂子は気遣うように、吉羅を見つめている。
「彼女なら、構わない。もう先に帰ったからね」
 吉羅の言葉に、香穂子は幾分かホッとしたように笑う。
「…だったらお言葉に甘えます。有り難うございます」
 香穂子がすんなりと受け入れてくれたのが嬉しくて、吉羅もつい笑顔になった。
「車はそこに停めている。行こうか」
「はい」
 吉羅は香穂子を連れて駐車場へと向かう。
 まるで恋をしたての子どものような気分だった。



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