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吉羅との会話が楽しくてしょうがない。 だが、いつ嫌われるのかと心配で、香穂子はドキドキしていた。 ジプシーアンサンブルの演奏が始まると、夢中になって聞き入るが、神経の何処かで常に吉羅を意識していた。 吉羅が苦笑いをしながら、香穂子の様子を見ているのを感じて、ほんのりとした幸せを感じていた。 曲の間に、吉羅は香穂子には声を掛けてくれる。 「日野君、折角の料理が冷めてしまうから、今のうちに食べなさい」 「有り難うございます! 余りに演奏がロマンティックで素晴らしかったから、つい聞き入っちゃいました」 香穂子は苦笑いを浮かべると、元気よく食事をし始めた。 デザート時間になって、ジプシーアンサンブルの演奏が終わり、香穂子は微笑んだ瞳で吉羅を見つめる。 こんなに幸せな時間をくれた吉羅には、感謝の言葉しかない。 「吉羅理事、有り難うございます。本当に素晴らしい演奏とお料理、どちらも最高でした!」 「それは良かった」 吉羅の僅かに柔らかく優しくなった表情を見つめながら、香穂子は幸せな気分になる。 最高の時間だ。 このような時間がこれからずっと紡ぐことが出来れば良いのにと、こころから願わずにはいられなかった。 今日はみなとみらいの外資系ホテルでのアルバイトだ。時給が良いので、ホテルのパーティの給仕係をしている。 今日は、財界の大きなパーティがあるということで失敗は許されない。 そのため、殆どの給仕係がホテルの社員スタッフで、香穂子のようなアルバイトスタッフは、ごくごく一部だ。 それでもこうしてスタッフの一員として選ばれたのは嬉しかった。 時給も今日はかなり高いので嬉しい。 今日はいつもよりもしっかりとミーティングをした後、いよいよパーティ会場に乗り込んだ。 「こんな大きなパーティは初めてだから緊張しちゃうね」 「そうだね」 アルバイト仲間と囁き合ってから、会場の入り口近くに整列する。 会場に入った瞬間、香穂子は息を呑んだ。 パーティ参加者のなかに、一際存在感を放つ男がいる。 吉羅暁彦だ。 その堂々たるオーラに、香穂子は圧倒されると同時に、つい見惚れてしまっていた。 給仕係と成功したビジネスマン。 余りにも住む世界が違うと思い知らされているかのようだ。 まさかこのような場所で逢えるとは思わなかった。 仕立ての良いスーツを身に着ける吉羅は、ファッション雑誌に出て来るモードなモデルよりも完璧に着こなしている。 吉羅のきらめくような美しさと男らしい威厳は、香穂子をうっとりとさせた。 だが、次の瞬間、切なくて堪らなくなる。 こころが痛い。 香穂子の視線の先には、吉羅がパーティに連れて来た美しい女性が一緒に寄り添っている。 痛い。 痛くて、辛くて、切なくて…。自分ではどうしようもなかった。 切なさを何とか堪えて吉羅たちを見ないようにする。だが、吉羅は真っ直ぐ香穂子を見つめてきた。 相変わらずクールで魅力的な瞳。 香穂子は吉羅の存在に気付いていないふりをするために、わざと何処か遠くを見ていた。 スピーチが終わり、パーティの本格的な勝負の時間が始まる。 香穂子が最も忙しくなる時間帯だ。 忙しくすれば、吉羅のことを忘れていられる。 乾杯の時も、吉羅とは違うテーブルを担当していたので、吉羅と話す機会はなかった。 それはそれで良いのかもしれない。 香穂子はばたばたと仕事に終われていた。 こうしていれば、吉羅と女性のことを考えられずにすむ。 様々な財界人に声を掛けられている吉羅は、とても生き生きしていて、香穂子は益々違う世界の人間だと感じずにはいられなかった。 隣にいる女がずっと着いているから、しゃしゃり出る訳にはいかなかった。 今は一生懸命働くしかないと、香穂子は思った。遠くから見える香穂子は、一生懸命働いている。 「日野さん手伝おう」 「有り難うございます」 香穂子は先輩給仕係に助けて貰いながら、仕事に夢中になるように頑張る。 不意に吉羅が厳しいまなざしをしているのに気付いたが、香穂子は無視するようにしていた。 こんな風に嫉妬してしまうなんて、女としては最低だと思う。 こんなに苦い嫉妬をするなんて、今までの香穂子では考えられなかったことだった。 本当に吉羅に夢中になってしまっている。 そんな自分に苦笑いを浮かべざるをえなかった。 ようやく仕事に一区切りついた。 落ち着くとまた吉羅のことを考えてしまう。 だが、女は相変わらず吉羅の横にいて、ふたりはとても似合いのカップルに見える。 それがまた切なかった。 吉羅が香穂子の様子を真っ直ぐ見ている。 意識をせずにはいられなくなる。 「日野さん、あちらのテーブルにビールを運んで」 「はい」 先輩に言われて、香穂子はビールを持っていく。 吉羅にじっと見つめられて、一瞬だけ笑顔を送る。だが女性の存在を見て、少し切ない気持ちが顔に出てしまった。 香穂子は吉羅がいるテーブルにいくと、従業員らしく頭を下げた。 空いた皿を手早く片付ける。 吉羅がそばにいるだけで、脚が震えた。 「日野君、仕事に精が出るね? アルバイトかね?」 吉羅が声を掛けてくれても、香穂子は視線を合わせられない。 隣にいる女性の存在感が大き過ぎて、上手く出来なかった。 今日はいつも以上にかたくなになってしまう。これも吉羅に恋をしている故にだ。 やっとのことで言葉を発する。 「…今日はアルバイトの日なんです。ここは時給が良いから…」 香穂子はたどたどしく言うと、手早く皿を片付けようとした。 「あっ…!」 余りにも手が震えていたからか、皿のうちの一枚を手から滑らせて粉々にしてしまう。 今までこんな失敗はしたことがなかったのに。 香穂子は泣きそうになった。 指先から血が滲んでいるが、それよりもこころが痛くてしょうがない。 全くまだまだ子どもで精神的にも未熟だ。 吉羅の横にいようだなんて、夢のまた夢だ。 香穂子は洟をすすりながら、慌てて皿を片付けようとしたが、吉羅が直ぐに華奢な手首を握り締めてきて、香穂子を覗き込んできた。 「指先に怪我はないかね!」 吉羅の視線が指先に這う。そのまなざしだけで鼓動が酷くおかしくなっている。 吉羅暁彦の威力はやはり凄いのだと思わずにはいられなかった。 指先は、ヴァイオリニストとしては大切な部分だ。 それを怪我してしまうなんて、なんて不注意なのだろうか。 だが小さな傷ならば直ぐに治るだろう。 吉羅の視線もそれを非難しているように思えた。 吉羅はスマートに手を上げて直ぐに別の給仕係を呼ぶと、片付けるように指示をする。 「私がやったんですから、私が片付けますっ」 香穂子が早口で言って手を出そうとしたが、吉羅はそれを阻止した。 吉羅の視線が厳しくて怖い。 「君は指を手当てするんだ。私がやろう」 吉羅の強引なやり方に、香穂子は甘いときめきを感じずにはいられない。 こんなにスウィートな感覚は他にないのではないかと思った。 だが戸惑いはある。 嬉しい緊張とときめきに、どうして良いかが解らなかったのだ。 だがそんなことなど言ってはいられないと、吉羅の厳しい視線が香穂子に囁いている。 ヴァイオリニストの指先なのだから。 「少し来なさい」 「…はい」 香穂子はそのまま手首を引かれて、ロビーへと連れていかれた。 |