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吉羅は車をゆっくり出す。 「日野君、君の家は何処かね?」 「学院のすぐ近くなんです。歩いて行けることもあって、選んだ学校なんです」 「そうか」 学院の近くだと余りにも近過ぎる。出来たらもう少しドライブを楽しむことが出来れば良いのにと、吉羅は思わずにはいられない。 「…日野君、少しみなとみらいを一周してから帰らないかね?」 疲れている香穂子を振り回すのは気が引けるが、もう少し一緒にいたいという気持ちが勝ってしまう。 吉羅はほんのりと甘い恋情を滲ませながら、香穂子に訊いた。 「良いんですか! だったら凄く嬉しいです。私、みなとみらいの夜景が大好きなんですよ」 弾む香穂子の声に、吉羅もつい微笑んでしまう。 「それは良かった」 香穂子が夜景を一緒に見てくれるのが嬉しくて、吉羅は静かに微笑む。 「みなとみらいを一周してから、夜景をゆっくり見られるところに行くか」 「有り難うございます。あんな失敗をしたのに、最後にとっておきのプレゼントを貰ったみたいで嬉しいです」 「ヴァイオリニストの君には指先は大事だから、気をつけたまえ」 吉羅が静かに言うと、香穂子はシュンと肩を落としてしまった。 香穂子は、夜景と吉羅を交互に見ながら、幸せそうに微笑んでいる。その様子がとても可愛らしかった。 「君は目がくるくる動くね」 「あ、夜景も綺麗ですけれど、吉羅さんの運転を見るのも楽しいな…なんて思ったんです」 香穂子の素朴な可愛らしさのある言葉に、吉羅はつい微笑んでしまう。 本当に可愛いと思ってしまう。 「…だったら日野君、今度、もう少し長いドライブをするかね?」 「ホントですか!?だったら凄く嬉しいです!」 吉羅が提案すると、香穂子は本当に嬉しそうに笑う。 このまま車を停めて、香穂子を抱き締めたくなった。 香穂子は、今まで吉羅が付き合った女のタイプとはまるで違う。 取り繕うこともない、ごく自然で素直な反応を見せてくれる。それが吉羅には愛しくてしょうがなかった。 「だったら来週の週末でも近場の海に行くかね?」 「行きたいです」 「だったら決まりだね」 吉羅はすんなりと呟くと、車をゆっくりと夜景スポットへと向かわせた。 香穂子と逢う約束をするだけで、この上なく幸せな気分になる。 ただ逢うだけ。 ただドライブをするだけ。 なのに素晴らしく幸せな気分になるから不思議だ。 「ホントに楽しみにしていますね」 「ああ」 吉羅もまた待ち遠しくてしょうがなかった。 吉羅は車を、みなとみらいが一望出来る穴場に停める。 ストレス発散に六本木から横浜まで車を飛ばして、夜景をひとりで見に来ていたが、今日は最高のパートナーに恵まれている。 これ以上の幸せはない。 「凄い! こんなに綺麗な夜景を見られるなんて! 凄いです!」 香穂子は、まるで小さな子どものように燥ぐと、瞳を輝かせながら夜景をじっくりと見つめた。 「…本当に綺麗です」 「だろう? 私のとっておきの風景だ」 「素敵な場所に連れて来て下さって有り難うございます」 「君に気に入って貰えて嬉しいよ」 香穂子ははにかんだ笑みを浮かべた後、吉羅を澄んだ瞳で見つめてくる。 こんなにも愛しくて、艶を感じる瞳は他にない。 吉羅はもう恋心を止めることが出来なくなることを悟る。 「…香穂子…」 初めてその名前を呼ぶと、香穂子は驚いたように吉羅を見上げる。 ほんのりと頬を赤らめると、香穂子は吉羅だけを見つめた。 もう止められやしない。 香穂子を愛することを。 もう止められやしない。 深い愛情も。 ロマンティックで、どうしようも出来ないほどに気持ちが盛り上がってしまっていた。 吉羅は、香穂子の顎をゆっくりと近付ける。 キスをせずにはいられなかった。 しっとりとした唇に自分のそれを重ねる。 まるでファーストキスをする少年のような気分になる。 或いは、香穂子の純真さに溺れている中年のドンファンのような気分になった。 重ねるだけの純真なキス。 香穂子の唇は、信じられないほどに甘くて柔らかかった。 こんなにも何度も触れたい唇はない。だが、香穂子が驚かないようにと、吉羅は何度か優しいキスをした。 重ねるだけのキスをしたあと、吉羅は香穂子の華奢な躰を抱き締める。 香穂子を想う気持ちを止めることが出来ない。 こんなにも好きになった相手は他にいないのだから。 吉羅は香穂子を抱き締めて、その柔らかな躰の感触をゆっくりと味わうように感覚を研ぎ澄ます。 「香穂子…、好きだ…」 吉羅は、まるで初めて告白をする少年のようになった気分だった。 香穂子は返事をしない。 だが、嫌がる風もない。 吉羅は不意に不安になり、思わず香穂子の瞳を覗き込んだ。 すると艶のある今にも泣き出しそうな瞳を吉羅に向ける。 嫌われているのかと、自分らしくなく思った。 香穂子は感きわまったように見つめた後、突然、吉羅にしっかりと抱き付いて来た。 こんなにも強く抱き締められたのは初めてで、吉羅は息を呑む。 「…吉羅さんのことが…大好きです…」 香穂子は声がかすれるような声で呟くと、吉羅の胸に顔を埋めた。 「…香穂子…」 吉羅が背中を撫でると、香穂子は洟を啜りながら顔を上げる。 「…あなたのことをずっと憧れていました…。あなたのことをずっと好きだったんです…」 「香穂子…」 香穂子の言葉に、吉羅は更に力強く抱きすくめる。 こんなにも愛しい告白は他になかった。 「…私は…、君を教会で見た時からずっと好きだったんだよ…」 今なら素直になれる。大人ぶる必要なんてない。 自分のなかで、至極大人で冷めた部分と、いつまでも子どものように冷静な部分がある。恋をするこころという点では、成長しきれてはいない。 「…私は…、あなたを学院で見た時から好きでした…。ずっと…」 香穂子の一生懸命で愛らしい告白は、吉羅のこころの深い部分に届いた。 「…香穂子…、君を愛しく思うよ…」 吉羅は甘く囁くと、唇をもう一度重ねる。 今度は深い角度で甘いキスをする。 誰にも渡さなくて良い。 誰にも渡したくはない。 吉羅は香穂子を力強く抱き寄せると、更に深いものを追い求めた。 舌先で、香穂子の口腔内を充分に味わいながら、愛撫していく。 香穂子を深く味わいたかった。 呼吸すらも自分のものにしたかった。 吉羅は一旦唇を放したが、浅く呼吸をすると、再び唇を奪った。 香穂子とのキスの甘美さに、酔っ払ってしまいそうだ。 香穂子がキスだけで恍惚になってしまったところで、ようやくキスを止めた。 香穂子は今までとは違った潤んだ美しい瞳を吉羅に向けると、そっと肩口に顔を埋める。 「…嬉しいです…。吉羅さん…。あなたとは住む世界が違うと思っていましたから…」 「…香穂子…」 吉羅は香穂子の熱くて甘い柔らかな肢体を受け止めながら、何とか欲望を放出するのを踏みとどまる。 「…香穂子…、君にはもちろんヴァイオリニストとして成功をして貰いたいが、私はそれ以上に、君にそばにいて貰いたいんだよ…。矛盾…している想いなのかもしれないけれどね…。ヴァイオリニストとして一流になるのならば、海外に目を向けなければならないだろうが…、私は君に海外何かに行って欲しくはないんだよ…。だから、個人レッスンをさせることにしたんだよ」 吉羅は素直になる自分を感じる。 恐らくは香穂子がくれた魔法なのではないかと思った。 |