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フロントで救急箱を借りて、吉羅が香穂子をVIP用のサロンに連れていってくれる。 こんなにも優しくされたら、その甘さの余りに蕩けてしまいそうだ。 甘さを優しさを、本物の恋だと勘違いしてしまいそうだった。 部屋の端にあるソファに座らされると、吉羅は香穂子の指先を手に取った。 吉羅の手は大きいのに、すらりとしたとても綺麗な指先をしている。男性でこんなにもなまめかしい指先をしているひとは初めて見る。 吉羅は香穂子の指先に視線を神経質に這わせると、いきなり血が滲んだ中指を唇に持っていった。 「…んっ…!」 全身に甘い感覚が駆け抜けて行く。今までにない震えに、香穂子は窒息してしまいそうだ。 吉羅に血を吸い上げられるだけなのに、香穂子はついたっぷりと甘い声を上げる。それが恥ずかしくて堪らなかった。 僅かに震える初さに、吉羅が飽きれているかのような視線を向けてきた。 「…君は本当に…」 吉羅の呆れ果てた声に、香穂子は益々しょんぼりとしてしまう。 「…吉羅理事…」 吉羅は香穂子の指先に消毒薬をつけた後、手早くバンドエイドを貼った。 「これで大丈夫だ」 「有り難うございます…」 香穂子は耳まで紅くするようなはにかみの表情を浮かべた後、軽く頭を下げる。 罪悪感と恥ずかしさが滲んできた。 「さあ、戻ろうか」 「…はい。有り難うございました」 香穂子は、吉羅に何度も礼を言う。 甘くて厳しくて、優しい。 また吉羅を好きになってしまう。 吉羅は何も言わず静かにパーティ会場に向かう。それを香穂子が追いかけるだけだ。 パーティ会場に戻ると、香穂子は吉羅に改めて頭を下げた。 「有り難うございました」 礼を言うと、吉羅は僅かに笑ってくれた。 香穂子は直ぐに仕事へと戻りながら、もう少しだけ優しく甘い時間を共有したいと思っていた。 仕事に戻り、香穂子はアルバイト仲間や社員スタッフに頭を深々と下げる。 誰もが香穂子に好意的だったので、ホッとした。 そこからは仕事に集中しようと努力する。 だが目線は常に吉羅を探し続けていた。 パーティが終わり、香穂子は会場の後片付けに終われる。 片付けの目処がつくと、それで御役御免とあいなった。 今日の仕事はとてもハードだったが、かなりやりがいもあったし、何よりも吉羅暁彦と一緒にいることが出来たのが良かった。 着替えて、いつものように従業員出入り口に行くと、そこには吉羅暁彦がいた。 吉羅の姿を見るだけで、やはりこころはときめく。 「吉羅さん…」 香穂子は一瞬驚いていたが、嬉しさが勝って直ぐに笑顔になった。こんなにも素敵なサプライズならば大歓迎だ。 「送ろうかと思ってね」 吉羅の申し出に、香穂子は連れの美しい女を思い浮かべる。 「お連れの方はよろしいんですか?」 香穂子は気遣うように、吉羅を見つめる。本当は嬉しくてしょうがないのに、上手く素直にはなれなかった。 「彼女なら、構わない。もう先に帰ったからね」 吉羅の言葉に、香穂子はホッとしたのと同時に喜びが滲み、つい微笑んでしまう。 「…だったらお言葉に甘えます。有り難うございます」 断る理由もなく、何よりも嬉しいから、香穂子はすんなりと返事をする。 吉羅にも笑顔が滲んだ。 「車はそこに停めている。行こうか」 「はい」 吉羅は香穂子を連れて駐車場へと向かう。 香穂子はうきうきする余りに、ステップすら踏みそうになっていた。 車に乗り込むと、吉羅は車をゆっくり出す。 「日野君、君の家は何処かね?」 「学院のすぐ近くなんです。歩いて行けることもあって、選んだ学校なんです」 「そうか」 家が学院の近くだというのがこんなにも切ないなんて、初めてかもしれない。余りにも近過ぎる。出来たらもう少しドライブを楽しむことが出来れば良いのにと、香穂子は思わずにはいられない。 「…日野君、少しみなとみらいを一周してから帰らないかね?」 吉羅の申し出に、香穂子は飛び上がりたくなるほどに嬉しくなる。 まるで以心伝心したようで嬉しかった。 もう少し一緒にいたいという気持ちが、吉羅に伝わったからだろうか。 「良いんですか! だったら凄く嬉しいです。私、みなとみらいの夜景が大好きなんですよ」 香穂子が声を弾ませて感情を出すと、吉羅も微笑んでくれる。まるで二人の気持ちが繋がったようで嬉しかった。 「それは良かった」 吉羅が夜景を一緒に見てくれるのが嬉しくて、香穂子は向日葵のように微笑む。 「みなとみらいを一周してから、夜景をゆっくり見られるところに行くか」 「有り難うございます。あんな失敗をしたのに、最後にとっておきのプレゼントを貰ったみたいで嬉しいです」 香穂子は今にも踊り出してしまいたくなるぐらいに、嬉しかった。 「ヴァイオリニストの君には指先は大事だから、気をつけたまえ」 吉羅が戒めるように静かに言うものだから、香穂子はシュンと肩を落としてた。 香穂子は、夜景と吉羅を交互に見ながら、幸せな気分で微笑んでしまう。 吉羅の運転する姿を見るのが大好きだ。それと同じぐらいに夜景を一緒に見るのが好きだ。 「君は目がくるくる動くね」 「あ、夜景も綺麗ですけれど、吉羅さんの運転を見るのも楽しいな…なんて思ったんです」 香穂子がはにかみながらも素直な気持ちを言葉に綴ると、吉羅も微笑んでくれる。 吉羅の微笑みはなんて威力があるのかと思う。素敵さが無敵な笑みは、本当に香穂子に幸せを与えてくれる。 「…だったら日野君、今度、もう少し長いドライブをするかね?」 「ホントですか!?だったら凄く嬉しいです!」 吉羅の提案が本当に嬉しくて、香穂子は最高に輝いた笑顔を無意識に浮かべていた。 それを見守るように見つめてくれる吉羅が、素敵過ぎて言葉に出来ない。 出会ったなかで最高に大人で素晴らしい男性だ。 恋を止めることが出来ないと思ってしまうほどに。 「だったら来週の週末でも近場の海に行くかね?」 「行きたいです」 「だったら決まりだね」 約束がある。 それだけで生きる張り合いが生まれて、世界が薔薇色に染まるなんて、恋はなんてステキなのだろうと、思わずにはいられない。 吉羅と逢う約束をするだけで、この上なく幸せな気分になる。 ただ逢うだけ。 ただドライブをするだけ。 なのに素晴らしく幸せな気分になるから不思議だ。 それは恋をしているからだ。 「ホントに楽しみにしていますね」 「ああ」 香穂子は待ち遠しくてしょうがなかった。 吉羅は車を、みなとみらいが一望出来る穴場に停めてくれる。 吉羅と一緒に夜景を見られる。 これ以上の幸せとロマンティックはない。 「凄い! こんなに綺麗な夜景を見られるなんて! 凄いです!」 香穂子は、まるで小さな子どものように燥ぐと、瞳を輝かせながら夜景をじっくりと見つめた。 「…本当に綺麗です」 「だろう? 私のとっておきの風景だ」 「素敵な場所に連れて来て下さって有り難うございます」 「君に気に入って貰えて嬉しいよ」 香穂子は恋情を滲ませた笑みを浮かべた後、吉羅を澄んだ瞳で見つめる。 こんなにも愛しくて、艶を感じる男性は他にはいない。 香穂子はもう恋心を止めることが出来なくなることを悟る。 「…香穂子…」 初めて名前を呼ばれ、香穂子は驚いて吉羅を見上げた。 吉羅の声で名前を呼ばれるのは本当に特別なことのように思える。 ほんのりと頬を赤らめると、香穂子は吉羅だけを見つめた。 もう止められやしない。 吉羅を愛することを。 もう止められやしない。 深い愛情も。 そう悟った瞬間、吉羅の唇が降りて来た。 |