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香穂子と他愛ないメールをやり取りするようになり、それが何よりもの癒しになっている。 吉羅は仕事が忙しいし、香穂子も定期的に行なっている教会でのチャリティーコンサートの準備やヴァイオリンの練習ですれ違い、普段は余り逢えないが、週末にはドライブデートをするようになっている。 手を繋いで、キスをして、抱き合う。 まだまだ子どもの延長のような清いデートが続いている。 香穂子の唇に触れる度に、欲しくなる衝動をかなり抑えてはいるが、最近では上手くいかなくなっている。 吉羅も成人した男だ。 愛している相手、想いが通じ合っている相手とは、やはり躰で結ばれたいと思っている。 吉羅にとってはなかなか踏み込めない領域だ。 それは誰よりも大切に思っている香穂子が相手だからだ。 だからこそどうしても踏み込めないでいるのだ。 驚かせたくはない。 切なくさせたくもなかったから。 だからこそ慎重になってしまう。 香穂子はずっと大切にしたい相手だから、もうずっと離したくない相手であるから、嫌われてしまうようなことは出来ない。 これは所謂“嫌われたくない症候群”なのだろうか。 吉羅は苦笑いを浮かべると、自分がいかに恋には臆病であるかを思い知らされた。 香穂子のライフワークとも言える教会でのミニコンサートの当日、吉羅は客席に腰を掛けていた。 この後、香穂子と食事に出掛けることになっているのだ。 吉羅は、教会特有の木の硬い椅子に腰を掛けながら、小さなステージを見つめていた。 最近、このコンサートの準備等もあり、なかなか会えなかったから、今夜はとても楽しみにしている。 香穂子の温かなヴァイオリンが聴けるのも勿論のことだが、この後に香穂子の温かな笑顔を独占出来るのが、何よりも嬉しかった。 明日も逢うことにしているから、本当に嬉しかった。 香穂子の友人や教師、同期生も見受けられる。 誰もが純粋に日野香穂子のファンであることは、吉羅にはよく理解することが出来た。 吉羅自身が誰よりも香穂子のファンであることを、自覚していたから。 吉羅は静かに前だけを見つめると、香穂子の登場を待ち構える。 自分だけを見つめて欲しいと、そんなわがままなことを考えてしまう。 香穂子がステージに現われると、吉羅はただ熱いまなざしを向ける。 今日の香穂子は、いつも以上に美しく愛しい存在のように思えた。 香穂子は吉羅の姿を見つけたからか、うっすらと微笑んでくれる。 その顔が可愛くてしょうがない。 自分だけを見つめて欲しい。 そんなわがままな気持ちを知っているからだろうか。 香穂子は真剣なまなざしになると、ヴァイオリンを奏でた。 まるでヴァイオリンだけに集中して、吉羅のことを忘れているかのように見える。 それが切なくて堪らない。 香穂子はきっと知らない筈だ。 こんなにも吉羅が想っていることを。 なのに自分を忘れてヴァイオリンに集中しているように思えて、吉羅は苦々しい炎がこころに広がっていくのを感じていた。 ヴァイオリンに嫉妬するなんてどうかしている。 それほどまでに香穂子を愛しく思ってしまう。 自分だけが好き過ぎるなんて、自分勝手な想いがこころに滲んでいた。 香穂子が奏でるヴァイオリンは相変わらず素晴らしくて、吉羅のこころを温かく包み込んでくれる。 その温かさと嫉妬の炎がやがてひとつになって溶け出すのを感じた。 コンサートが終わり、誰もが香穂子を絶讃するように拍手をする。 香穂子が絶讃されるのは自分のことのように嬉しいが、吉羅は独占欲の余りに何処か嫉妬に似た感情を抱いていた。 香穂子が自分だけのものになれば良いのにと、その想いが募るばかりだった。 吉羅は、ステージを終えた後の香穂子の楽屋に訪ねる。 「…香穂子、吉羅だ」 「どうぞ」 香穂子は直ぐにドアを開けてくれると、笑顔で迎え入れてくれた。 近くにいる香穂子は、先ほどよりも遠い存在ではない。 それどころかとても近い存在のように思える。 「今日の演奏は素晴らしかったよ。君らしくてね」 「…有り難うございます。とても嬉しいです…。暁彦さんに褒められるのが一番嬉しいかもしれません」 「…香穂子…」 にっこりと素直に笑う香穂子が本当に可愛くて、吉羅はそのまま力強く抱き締めた。 「…暁彦さんが、ずっと気難しい顔をしていたから…、私…、気に入らないと思っていたんです…」 香穂子は少し切なそうな顔をすると、吉羅を見つめた。 「気に入らないことはないよ…。本当に素晴らしい演奏だったよ…」 「有り難うございます」 吉羅が抱き寄せると、香穂子はようやくホッとしたように背中に手を回してきてくれた。 演奏中も香穂子はちゃんと吉羅のことを考えてくれていたのが、とても嬉しい。 片時も忘れないでくれたのが、嬉しくてしょうがなかった。 吉羅は、香穂子の顔を上げると、アイスクリームよりも甘いキスをする。 唇を重ねることで、想いを伝えあった。 キスの後、吉羅は香穂子の頬を緩やかに撫でる。 「…食事に出ようか。君とはゆっくりと話がしたいからね」 「有り難うございます」 香穂子は頷くと、もう一度吉羅を抱き締めた。 車で教会を出て、吉羅は夜景が美しく食事も楽しめるホテルのレストランへと向かう。 ちらりと香穂子を見る。 ワンピースに着替えた香穂子は、なんて美しいのかと思わずにはいられない。 このまま抱き締めて、ずっと朝まで一緒に居られれば良いのにと思わずにはいられなかった。 レストランに行き、ふたりで夜景の美しい席に着く。 どうしてこんなにも綺麗なのかと思うほどに、香穂子は美しかった。 「有り難うございます。こんなに美味しくて素敵な食事を。嬉しいです」 香穂子は無邪気に言うと、いつものようにダイエットなど気にしないとばかりに食べている。 綺麗にしていながら気取ることのない無邪気さが、吉羅には愛しかった。 食事を終えたものの、まだ離れなくはない。 お互いにそれがひしひしと分かる。 もう限界なのかもしれない。 いや、リミッターなんてとうの昔に切れてしまったのかもしれない。 香穂子への愛情と欲望が一気に溢れ出すのを感じていた。 吉羅は香穂子の手を掴むと、そのままレストランを出る。 「…あ、あのっ!」 いきなり連れ出したからか、香穂子が戸惑いを浮かべている。 吉羅は立ち止まると、余裕のない青年のように視線を迷子にする。一か八かの賭けだ。 「…君と夜を共有したいと言ったら…着いてくるかね…?」 吉羅は前髪をかきあげながら、香穂子にやるせないまなざしを向ける。 すると香穂子はまなざしを僅かに下げた。 一瞬、嫌だと言われるのかと思ったが、そうではなかった。 「…私も…吉羅さんと、夜を共有したいです…」 香穂子は切なげにまなざしを上げると、潤んだ表情を向けて来る。 これ以上に嬉しい瞬間はない。 香穂子が自分の女になるのだ。 こころも躰も総て。 吉羅は香穂子の手を引くと、ホテルのフロントへと向かった。 突然の宿泊の申し出も、顔見知りの支配人は快く受け取ってくれ、無事に部屋を確保することが出来た。 しかも夜景が美しい部屋だ。 「香穂子、行くか」 「はい」 香穂子とふたりで甘くて官能的な時間を過ごすために、ジュニアスィートへと向かった。 |