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香穂子は誰と週末を過ごすというのだろうか。 他の男との姿を思い浮かべるだけで嫉妬してしまう。 今まで、誰かに嫉妬するなんてことは、全くといってなかった。 嫉妬なんて愚かものがするものだと、ずっと思っていたのだから。 なのに、いざ自分が嫉妬する立場になるとどうだろうか。 下らないと思いながらも、これほどまで自分が嫉妬するとは思わなかった。 仕事が手に付かない。 かと言って、他の誰かが欲しいとも思えなかった。 ただ香穂子と一緒に過ごせない苦しみが、嫌なぐらいに胸を支配していた。 吉羅は、すっかり舞い上がってしまっている自分の気持ちを律しようとするが、なかなか上手くいかなかった。 土曜日の夜にひとりで過ごすなんて、今までなかった。 それをさせてしまう香穂子の影響力は、かなり凄まじい。 吉羅は溜め息を吐くと、酒を飲んで気分転換をはかることにした。 酒を飲み始めたタイミングで、吉羅の携帯がメール受信を知らせてくれる。 何気なくメールをチェックすると、差出人は香穂子だった。 吉羅は、まるで好きなひとから初めてメールを貰った中学生のような気分になりながら、メールを開いた。 吉羅さんへ。 今日はお誘い下さいまして有り難うございました。 楽しくて美味しい時間を有り難うございます。 とても有意義に過ごすことが出来ました。 感謝しています。 またヴァイオリンを聴いて下さい。 私が演奏する機会がありましたらご案内致します。 公園での青空コンサートも宜しければ開催しますね。 本当に有り難うございます。 明日から頑張れそうです。 おやすみなさい。 香穂子 香穂子のメールは、温かさが滲むのと同時に、何処か他人行儀のような気がする。 距離感が感じられるのだ。 吉羅はそれを壊してしまえたら良いのにと、強く思う。 香穂子が一番近くて安心する存在になれたら良いのにと、思わずにはいられなかった。 仕事に熱中していると、煩わしいことも忘れられる。 ふと緩んだ時間に、香穂子のことを考えるととても幸せな気分になる。 和んで、幸せで、更にもっとそれを高めたくなるような気分になった。 「CEO、本日の郵便物ですわ。必要なものだけをピックアップしておりますから」 「有り難う」 吉羅は直ぐに仕事モードに切り換えると、重要な書類から目を通した。 直ぐに対応しなければならない案件については素早く対処する。 残ったのは、煩わしいと感じる財界パーティの案内状だけだ。 本当に下らない。 だが、ビジネスにおいては、最も大切なツールのひとつであることも確かだ。 余りにも沢山のパーティがあるので、総てに出席することはしないが、吟味をした上で出席する。 ビジネスチャンスを得る為には、それもひとつの方法であるからだ。 吉羅はピックアップしたパーティの案内状以外は、総て秘書に欠席と処理をさせた。 また、頭取の娘を同行させれば、有らぬ期待と噂を立てられかねない。 あのようなタイプを妻にするつもりでいたが、今はそうではない。 今は自分が納得いく、共にいて心地が好い相手を選びたかった。 吉羅は溜め息を吐くと、パーティを振り分ける。 固定した相手は決めずに、パートナーはバラバラにした。 どうしても、頭取の娘をひとつのパーティのパートナーとして選ばなければならなかったが、それは致し方がないと諦めることにした。 パーティの招待状の処理を終えると、再び仕事に向かう。 メールチェックをすると、星奏学院の理事会開催メールが来ていた。 香穂子に逢えるかもしれない。 キャンパスで話をすることが出来るかもしれない。 それだけが目的で、吉羅は出席のメールを出した。 最近、多忙を極めていたせいか、香穂子を呼び出すことが出来なかった。 その上、香穂子にはより高い音楽教育上を受けさせたくて、その手配も忙しかった。 こればかりは、他人に任せたくはなかったから。 香穂子のことは、自分でやりたかった。 様々なコネクションを使い、日本人の有名なヴァイオリニストのレッスン確約を取った。 香穂子のヴァイオリン演奏を収録したCDを金澤から取り寄せ、それを聴かせて熱心に説得をしたのだ。 ヴァイオリニストも、香穂子の音色にひどく興味を持ってくれ、日本にいる時にはレッスンをしてくれると確約してくれた。 一流のヴァイオリニストに直接教えを請うことで、よりヴァイオリニストとして成長をして欲しかった。 その手配も落ち着き、仕事も目処がついた。 今週の土曜日ならば少しは時間が取れるので、呼び出すつもりでいた。 音楽の成果を聞く為と嘘を吐いて。 吉羅が星奏学院に到着をしたのは、理事会開催のギリギリの時間だった。 分刻みのスケジュールをこなしているのだから、致し方がないといえばそうなのだが、香穂子に逢える時間が限られるのが痛かった。 吉羅が足早に会議室まで歩いていると、遠くに燃えるように輝く髪が見えた。 本当に美しい髪だ。 何処にいても、香穂子だけは直ぐに見つけることが出来る。 香穂子は、音楽仲間たちに囲まれて、幸せそうに笑っていた。 周りの誰もが、その笑顔に癒されているのを感じる。 周りには女子学生もいたが、男子学生のウェイトのほうが高いように見えた。 誰もが香穂子に夢中なのだろうか。 この中に、香穂子のこころを独占している音がいるのだろうか。 そう考えるだけで、イライラが躰の奥深いところから込み上げてくるのを感じた。 思わず握り拳を作ってしまう。 吉羅は、自分でもなんて子どもじみているのだと思いながら、その感情を消すことが出来ずにいた。 時計を見るとタイムリミットだ。 行かなければならない。 吉羅は溜め息を吐くと、会議室に向かって歩き始めた。 会議は、学院の再建について考えるもので、息を吐く暇はなかった。 吉羅は経営のプロフェッショナルとして、冷静沈着な意見を数多く出す。 自分の利益ばかりを優先しようとする理事たちに半ば呆れ返りながら、吉羅は建設的で有効な再建策を幾つか提案した。 経済界を一匹狼で渡ってきた吉羅にとっては、理事たちの態度は信用出来ないものだった。 結局は決着はつかずに、来週改めて会議をすることになった。 その後は、学院学生や職員を交えた食事会が開かれ、更なる意見交換が行なわれるらしい。 香穂子にまた逢えるのだろうか。 それだけが楽しみだった。 ようやく理事会を終えた後、吉羅は応接室へと向かう。 金澤に予め香穂子を呼び出して貰い、ヴァイオリンレッスンを新たに設定することを伝えるのだ。 香穂子が喜んでくれるのならば、これ以上に嬉しいことはない。 香穂子の笑顔をただ見たかった。 あの笑顔に癒されている相手は、自分だけではないことは解ってはいたし、独占することが出来ないことも解ってはいる。 だが、それでも欲しかった。 しっかりとしたノック音が響き、吉羅は振り返る。 「理事、日野です」 「入りたまえ」 「失礼致します」 香穂子は凛々しいが何処か優しげな声で言いながら、ゆっくりと応接室へと入ってくる。 夕陽が真っ直ぐに応接室に入ってきて、香穂子を美しく照らす。 その姿はまるで女神のようで、美し過ぎて目を見張った。 「吉羅理事、こんにちは。御用でしょうか?」 笑顔で言う香穂子は、吉羅のこころにスッと入り込んできた。 |