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運転席の吉羅からは、ほんのりと艶のある大人の男性特有の胸を焦がす香りがした。 吉羅にとても似合う香りに、香穂子は胸の奥が痛くなるほどにときめく。 艶がある夏向きの大人びた香りが似合う男性など、なかなかいないだろう。 今まで嗅いだ男性用フレグランスのなかで一番素敵な香りだった。 香りに酔い痴れてうっとりとしていると、吉羅が甘い声を掛けてくる。 「好きなジャンルは何かね? 和食、フレンチ、イタリアン…。好きなものを言いたまえ」 吉羅の声と香りにときめきながら、香穂子は吉羅を見る。 声も表情も、相変わらずクールで、隙を与えてはくれない。 遠い世界にいるひとのようだ。 香穂子は少しだけ切なさを感じながら、吉羅に微笑んだ。 「和食が一番好きです」 香穂子が笑いながら言うと、一瞬、吉羅の表情が綻ぶ。 その表情がとても魅力的で、見惚れてしまった。 本当に大人のスマートな男性なのだと思う。 「解った。落ち着いた雰囲気の店を知っているからそこに行こうか。味は保証する」 「嬉しいです。有り難うございます。本当に楽しみですよ」 素直に言えば、吉羅はまた微笑んでくれる。それが嬉しかった。 たまに崩れるポーカーフェースがひどく魅力的だ。 こんなにもときめいて魅力を感じる相手は、生まれて初めてかもしれなかった。 吉羅は直ぐに店に連絡をして座敷を押さえてくれる。 その対応の素早さがたまらなく素晴らしい。 吉羅はサングラスを掛けると、ステアリングを手に取り、車をゆっくりと出す。 表情が分からないが、サングラスを掛けた姿も素敵なので、香穂子は気に入っていた。 土曜日のお陰で、車はスムーズに走り抜けていく。 爽快だが、今日に限っていえば、スムーズさがかえって物足りない。 吉羅とはもっと長い間こうして近くにいたかったから。 吉羅のそばにいられて、助手席が香穂子だけに許された場所であればどれほど良かったのにと、思わずにはいられなかった。 車は横浜の街を走り抜けて、直ぐにヘルシーな創作和食が食べられる店に到着した。 吉羅は先に車から降りると、助手席のドアを開けてくれた。 女の子ならば誰もが夢見るようなエスコートぶりに、香穂子は脚がふわふわと浮いたようなロマンティックな気分になる。 「日野君、着いたよ。降りたまえ」 「はい」 香穂子はにっこりと笑いながら車から降りたが、一歩踏み出そうとして、脚を縺れさせる。 「きゃあ!」 香穂子がそのまま躓きそうになったところを、吉羅はしっかりと抱き留めてくれた。 想像するより逞しい躰で、鼓動が激しくなるのと同時に躰が一瞬にして熱くなるのを感じる。 このまま抱き締められたくなるような衝動を感じる。 吉羅はクールで何処か不機嫌な表情で香穂子を睨むように見つめると、香穂子を立たせてくれる。 「大丈夫かね?」 何処か迷惑そうに言う吉羅を切なくて思いながら、香穂子は泣きそうになる。 吉羅が素早く身を引いたものだから、余計に辛かった。 「…大丈夫です。有り難うございます」 香穂子ははにかみと何処か切なさを滲ませて表情を、俯き加減で滲ませる。 痛くて切ない感情が滲んで堪らなかった。 吉羅は相変わらず迷惑そうな顔をしている。 「行こうか」 「…はい。有り難うございました」 香穂子は丁寧に礼を言ってくれると、他人行儀のまま吉羅に着いてきた。 それが少しだけ痛かった。 座敷に案内されて、香穂子は吉羅と向かい合わせで座る。 間近に吉羅の整った顔を見ると、喉がからからに渇いてどうしようもなくなった。 先ほどまでは隣だったので気付かなかったが、今日はいつもにも増して素敵だと思う。 イタリアンスーツを厭味なくさり気なく着こなす姿は、うっとりしてしまうほどに素晴らしかった。 「ここの和食の懐石が美味しい。それで構わないかね?」 吉羅が美味しいというならばそうに決っている。香穂子は思わず笑顔になった。 「はい、有り難うございます」 香穂子は笑顔を浮かべて言うと、まなざしを吉羅に向ける。 だが吉羅は、笑顔で応えるどころか、スッと不機嫌そうに目を細める。 それがまたきつい。 吉羅は、恐らくは香穂子に好意を持たれるのが嫌なのだろう。 こんなにも冷たくて割り切ったひとはいないのではないかと思う。 吉羅は冷たい表情をしても、魅力的だ。 こんなにも素敵な男性は他にはいないのではないかと思ってしまう。 「音楽の調子はどうかね?」 「はい。今は少しだけ調子が良いように思えます。綺麗な音が出ていますから」 「それは良かった。君の様子は聞いてはいたが、益々その調子で頑張って貰いたい。一度、その成果を聴かせて貰いたいものだけれどね」 吉羅はあくまで淡々と呟くと、香穂子を見つめる。 パトロンとしては当然のことを言っているのだろう。 だが自分の音楽を認めてくれるのは、何よりも嬉しかった。 素直にその気持ちを瞳に宿す。 「有り難うございます。これからも頑張ります。あの…、ヴァイオリンは持ち歩いていますから、公園で弾くことも出来ます。吉羅さんさえ良ければですが」 香穂子は嬉しさやときめき、緊張などで鼓動を早める。 ヴァイオリンを開放的な場所で聴いて貰えれば、いつもよりも更に気に入って貰えるかもしれない。 そうなれば、こんなにも素晴らしいことはないのに。 今まで氷のようだった吉羅の瞳が、僅かに和らいだ。 「有り難う。是非、聴かせて貰おうか」 「はい! 是非!」 香穂子は、本当にこころから聴いて欲しくて素直な笑顔を見せると、吉羅は柔らかなまなざしをくれる。 まるで見守られているみたいだ。 本当にこのまま包み込まれたくなるような衝動を感じていた。 吉羅に見つめられて、香穂子ははにかんだ笑みを向ける。 吉羅は、大人の男性らしい深みのあるまなざしをくれた。 今まで知る限りの男性は、こんなにも深い瞳を持っているひとはいなかった。 香穂子は、一生懸命吉羅を見つめ返す。 艶のあるまなざしなんて出来ないが、純粋なこころを宿すことなら出来る。 吉羅は不意に柔らかな色を瞳に重なる。 まるで瞳で会話をしているかのようだ。 会話が瞳で成立するなんて奇跡だ。 言葉なんて必要ないのかもしれない。 もっと吉羅のことが知りたい。 大好きな憧れの男性だから。 話そうとしたタイミングで食事が運び込まれ、香穂子は少し苦々しい微笑みを浮かべた。 「美味しそうです。凄く嬉しい」 香穂子は機嫌良く笑うと、目の前の懐石料理に夢中になった。 吉羅は見守るように、まるで兄のような笑みを静かに浮かべてくる。 その笑みが、どれほど香穂子を癒し、甘い気分にさせているかを、恐らく吉羅は知らないだろう。 「食べなさい。しっかりと食べて、更に良い音色が奏でられるように頑張るんだ」 「はい、有り難うございます。音の肥やしにしますね!」 香穂子が礼儀正しく手を合わせて頂きますをする。 吉羅は笑みが滲んだ瞳で見つめながら、軽く首を傾げる。 その表情がまた甘い。 こんなにも魅力的な男性は、他にいないと、恋をしたフィルターが掛かったまなざしで見てしまっていた。 「…本当に美味しいです! 吉羅さん、やっぱり沢山美味しいお店をご存じなんですね。凄いな」 こころから純粋に感心しつつ、食事をしながら吉羅を見つめられるなんて。本当に幸せな気分になる。 「大学のほうはどうかね?」 「はい、カリキュラムは充実していますから、しっかりと勉強出来ます。ただ、更なるステップアップの為にも、もう少し頑張らないといけないとは思っています。それにはレッスンを増やさないと…。…ただ国内だと数が少ないこともあって、なかなか良い先生に巡り合えないのが難点なんですが…」 香穂子は悩みを素直に言うことが出来るのが不思議でならなかった。 |