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横に座った香穂子からは、ほんのりと百合の花のような香りがした。 香穂子にとても似合う香りに、吉羅は胸の奥が痛くなるほどにときめく。 百合の香りが似合う女など、なかなかいない。 今まで似合うと思ったのは姉だけだ。 「好きなジャンルは何かね? 和食、フレンチ、イタリアン…。好きなものを言いたまえ」 吉羅は、香穂子の香りにときめきながらも、それを表には出したくはなくて、わざとクールに言う。 「和食が一番好きです」 香穂子が嬉しそうに笑いながら言うものだから、吉羅もつい表情を綻ばせる。 「解った。落ち着いた雰囲気の店を知っているからそこに行こうか。味は保証する」 「嬉しいです。有り難うございます。本当に楽しみですよ」 素直な反応に、吉羅はまた微笑んでしまう。 日野香穂子といると、ポーカーフェースを崩してしまう。 こんなにも冷静にいられない相手は、生まれて初めてかもしれなかった。 吉羅は直ぐに店に連絡をして座敷を押さえて貰う。 サングラスを掛けると、車をゆっくりと出す。 これだと表情が分からないので安心だった。 土曜日のお陰で、車はスムーズに走り抜けていく。 爽快だが、今日に限っていえば、スムーズさがかえって物足りなかった。 香穂子とはもっと長い間こうして近くにいたかったから。 直ぐにヘルシーな創作和食が食べられる店に到着をし、吉羅はそこに香穂子をエスコートする。 吉羅は先に車から降りると、助手席のドアを開けた。 「日野君、着いたよ。降りたまえ」 「はい」 香穂子はにっこりと笑いながら車から降りたが、一歩踏み出そうとして、脚を縺れさせる。 「きゃあ!」 香穂子がそのまま躓きそうになったので、吉羅は思わず抱き留めた。 想像するよりも柔らかでしなやかな肢体に、躰が一瞬にして熱くなるのを感じた。 このまま抱き締めていたくなるような衝動を感じる。 吉羅は、何とか理性で欲望を抑え込むと、香穂子を立たせてやった。 「大丈夫かね?」 欲情を覚えた自分に対して吉羅は呆れ果てながら、香穂子から離れる。 「…大丈夫です。有り難うございます」 香穂子ははにかみと何処か切なさが滲んだ、とても色気のある表情をする。 こんな表情をされたら、更に熱い想いが沸騰してしまうではないか。 「行こうか」 「…はい。有り難うございました」 香穂子は丁寧に礼を言ってくれると、他人行儀のまま吉羅に着いてきた。 それが少しだけ痛かった。 座敷に案内されて、香穂子と向かい合わせで座る。 先ほどまでは隣にいなから気付かなかったが、今日はいつもにも増して美しいと思った。 シンプルなのに、それがかえって美しさを引き立てている。 「ここの和食の懐石が美味しい。それで構わないかね?」 「はい、有り難うございます」 香穂子は清々しい声で言うと、大きな魅力的な瞳を、吉羅に向けてきた。 その瞳で真っ直ぐ見つめられれば、こころが支配されてしまう。 香穂子は無意識に吉羅を誘惑をしているのだから、始末におえなかった。 本当に綺麗だ。 こんなにも美しい女性は他にはいないのではないかと思ってしまう。 「音楽の調子はどうかね?」 「はい。今は少しだけ調子が良いように思えます。綺麗な音が出ていますから」 「それは良かった。君の様子は聞いてはいたが、益々その調子で頑張って貰いたい。一度、その成果を聴かせて貰いたいものだけれどね」 吉羅はあくまで淡々と呟くと、香穂子を見つめた。 嬉しそうに光る、生命力のある輝かしい瞳。 本当に綺麗だ。 「有り難うございます。これからも頑張ります。あの…、ヴァイオリンは持ち歩いていますから、公園で弾くことも出来ます。吉羅さんさえ良ければですが」 香穂子のヴァイオリンを開放的な場所で聴くことが出来る。 こんなにも素晴らしいことはない。 「有り難う。是非、聴かせて貰おうか」 「はい! 是非!」 香穂子は、本当にこころから聴いて欲しいとばかりの笑顔を見せると、吉羅に柔らかなまなざしをくれる。 本当にこのまま抱き締めたくなるような衝動を感じていた。 香穂子を見つめると、はにかんだ笑みを向けてくる。 恥ずかしそうにしているが、何処か清楚で色っぽい。 今まで付き合ってきた女性は、こちらが見つめれば、情熱的なまなざしで返してきた。 だが香穂子は、見つめ返してくるが、純粋なまなざしを向けてくる。 それが吉羅には新鮮だった。 何を話そうというよりは、香穂子の様々なことが聞きたくてしょうがない。 知りたいのだ。 今までいなかった女性のタイプだから。 タイミング良く食事が運び込まれ、香穂子はにっこりと微笑んだ。 「美味しそうです。凄く嬉しい」 香穂子は機嫌良く笑う。 その明るく豊かな笑顔が、吉羅をどれほど癒し、甘い気分にさせているかを、恐らくは知らないだろう。 「食べなさい。しっかりと食べて、更に良い音色が奏でられるように頑張るんだ」 「はい、有り難うございます。音の肥やしにしますね!」 香穂子が礼儀正しく手を合わせて頂きますをする様子を見る。 こんなにも魅力的な女性は、他にいないと、恋をしたフィルターが掛かったまなざしで見てしまっていた。 「…本当に美味しいです! 吉羅さん、やっぱり沢山美味しいお店をご存じなんですね。凄いな」 こころから純粋に感心しつつ、食事をする香穂子を見ているだけで、幸せな気分になる。 香穂子の笑顔の素晴らしさは、そのまま音色の美しさと温かさに繋がるのだろうと、吉羅は思った。 「大学のほうはどうかね?」 「はい、カリキュラムは充実していますから、しっかりと勉強出来ます。ただ、更なるステップアップの為にも、もう少し頑張らないといけないとは思っています。それにはレッスンを増やさないと…。…ただ国内だと数が少ないこともあって、なかなか良い先生に巡り合えないのが難点なんですが…」 香穂子はある程度成長をしたヴァイオリニスト独特の悩みを口にしながら、軽く溜め息を吐いていた。 音楽界にはある程度顔は利く。 香穂子の為に、個人レッスンを用意してやることも出来るだろう。 「君の音を聴かせて貰って、どのような種類のサポートが必要かを判断しよう」 「有り難うございます」 香穂子の笑顔と言葉程、吉羅にとっての報酬はない。 吉羅は、香穂子の瑞々しい横顔を見つめながら、この笑顔を見る為ならば何でもしようとこころに決めていた。 音楽のこと、大学のことなど、香穂子からは様々な話を引き出すことが出来た。 有意義に時間は過ぎ、想像していたよりもずっと時間は経過していた。 この後、公園でヴァイオリンを聴くことが出来る。 そんな想いを抱いていたが、時計を見ていた香穂子からは意外な言葉が告げられた。 「吉羅さん、申し訳ありませんが…、これから予定があって、直ぐに行かなければなりません。次回こそ、必ずヴァイオリンを弾きますから、申し訳ありませんが、これで失礼させて頂いて構わないですか…?」 明らかに失望を感じながら、吉羅は溜め息を吐く。 ここは香穂子の予定を優先してやりたい。 吉羅は何とか自分の感情を抑え込むと、香穂子を見た。 些か冷たいまなざしになっていたかもしれない。 「解った。急ぎたまえ」 「はい、有り難うございます」 一生懸命駆け出す香穂子を見つめながら、吉羅はこころの奥から嫌な感情が湧き上がるのを感じる。 誰と逢うのだろうかと。 |