6
小悪魔ぶるなんて自分では無理だと思いながらも、天羽に押されてレッスンを開始する。 小悪魔なんて、昔見たクラシカルな映画の世界にしか存在しないものだと、香穂子は思っていた。 「香穂子、いい? 吉羅暁彦は、常に女性に自分の都合を合わさせるような男なんだよ。だから、呼び出されたからと言っても、ほいほい行かないのよ。あなたの価値を下げてしまうから」 「う、うん」 天羽の言葉を素直に飲み込みながら、香穂子は頷く。 逢いたくてしょうがないひとだから、直ぐに逢いに行ってしまうだろう。 その感情を上手く抑えられるか不安だった。 「あくまで七十パーセントはこちらの都合に合わせて貰うんだよ。で、残りの三十は相手の都合に合わせてあげる。わざわざ合わせてあげているって思わせるんだよ」 「解った」 あの吉羅暁彦に対してそれが出来るのだろうか。 それが難しくてしょうがない。 「吉羅さんと逢う約束はした?」 「まだ。だけど、報告の為に毎週土曜日は逢うことになっているんだ。夕方って言われたけれど、夕方からボランティアがあるから、お昼にしてもらったよ」 「あなたって、マジ天然小悪魔かもしれない…。私が言ってるのもまさにそこだよ。相手の都合ではなくて、 見事にあなたの都合に合わさせているじゃん。合格だよ」 「有り難う」 天羽は感心するように言うと、にっこりと微笑む。 「次は約束をした時に、見た目の小悪魔度を高めなくてはね」 「が、頑張るよ」 「よし! 絶対に成功するよ」 天羽に背中を押して貰うと、そのつもりになるから不思議だ。 香穂子は吉羅を振り向かせる為に、頑張ることに決めた。 バスタイムの後、寛いでいると携帯が鳴り響いた。 相手は吉羅暁彦だ。 電話に出るボタンを押す手が震えてしまう。 「吉羅だ」 まるで夜の美しい闇のような声に、香穂子はうっとりとしてしまう。 とろとろになるほどにときめくと同時に、いささか緊張してしまう。 「はい、香穂子です」 話す声が、気持ちの華やぎに対応して震えてしまった。 「日野君、土曜日の報告だが、十一時半に山下公園前のカフェで待っていてくれたまえ。迎えに行く」 吉羅は一方的な約束時間を言ってくる。 だが、こちらも都合を合わせて貰っているのだから、これぐらいは受け入れようと思う。 「解りました」 香穂子は同意する声が弾むのを感じる。話している間もつい笑顔になってしまっていた。 温かくて華やいだ優しい気持ちになる。 こんな気持ちを抱くなんて初めてかもしれない。 香穂子はもう少しだけ吉羅の声を聴きたくなる。 なのに何を話して良いのか分からずに、切り出すきっかけを掴むことが出来ない。 おたおたとしていると、吉羅のあっさりとした声が聞こえてきた。 「では土曜日に。じゃ」 吉羅の声は素っ気なくて、本当に義務に感じているのではないかと思ってしまう。 吉羅は静かにあっさりと電話を切ってしまった。 余韻のなか、電話を切られた後も、香穂子はディスプレーをじっと見つめてしまう。 土曜日が待遠しくなる。 これでいくら高いハードルが待ち構えていたとしても乗り越えていけるような気がする。 吉羅に逢える。 その落ち着いた雰囲気を独占することが出来る。 それだけで、吉羅の気持ちは高まってくる。 恋とは、憧れの世界のふわふわとした夢菓子でしかなかった。 だが、吉羅に恋をしてからというものの、それは現実的に感じられるふわりとした甘さになり、素晴らしい原動力になると感じる。 恋をすること。 誰かを愛すること。 こんなにも素晴らしいことはないとすら思った。 それを教えてくれたのは吉羅暁彦だ。 だからこそ恩返しをしなければならないと、思わずにはいられなかった。 約束を受けて天羽のレッスンが始まる。 「初めてのデートの印象が大切なんだよ。ここで失敗をすれば次はないからね」 「はい。先生!」 香穂子は、いささか緊張しながら、天羽の小悪魔レッスンに耳を傾ける。 男性と“お付き合い”なんてしたことがないのに、いきなり“小悪魔”を目指すのはハードルが高い。だが、何とかしたいと思っている。 天羽は香穂子をじっと見つめた後、何処か羨ましいとばかりの溜め息を吐いてくれた。 「ホント、香穂子は肌が綺麗だよね。これはこれで才能だよ」 「有り難う」 「小悪魔はね、塗り壁は禁止なの。素肌感を出すのが一番。あなたなら、少しパールが入った日焼け止めを塗るだけで充分だよ。目元と口元にポイントを置けば、後は大丈夫だよ。目はアイライナーで強調して、 後はビューラーで上げてマスカラで仕上げたら良いよ。唇は保湿のリップを塗って、ほんのりと色付くグロスを塗れば綺麗になれるよ」 「そんなシンプルで良いの?」 「そう。これだと準備も楽チンだから、香穂子も良いでしょ?」 香穂子は力強く頷いた。勿論、楽に綺麗になれるのならば、それに越したことはない。 「じゃ、やってみるから」 天羽は、香穂子が持っていり化粧品や、洋服をチェックして幾つか取り出す。 「このイエローのスリップワンピースと白いボレロが可愛いかも。後は、7センチヒールのサンダルの組み合わせが良いね。清楚で爽やかに色気がある感じで。髪は…下ろしておこうか」 天羽に言われた通りに着替えた後、眉を軽く描いて調え、目元はアイライナーを引き、マスカラを塗るだけにする。唇は薄いベージュピンクのリップの機能がついたグロスだ。 「…綺麗に色っぽいよ。香穂子は華奢な割には胸があるからさ、強調するようにペンダントを着ければ完成」 天羽に鏡の前に連れていかれて、香穂子はじっと見つめる。 「いつもよりは綺麗に見えるよ! だけど、子どもっぽくないかな…?」 「大丈夫だよ! 凄く洗練された綺麗なひとにしか、見えないから!」 「だったら良いけれど…」 洗練された大人の男である吉羅が相手だから、つい不安になってしまう。 本当に吉羅のこころを捕らえることが出来るのだろうかと思う。 「大丈夫だって! 自信を持ちな!」 「うん。有り難う、菜美」 香穂子は、天羽に背中を押されたのを感謝しながら頷いた。 吉羅と約束の日。 香穂子はいつも以上に緊張をしていた。 自分よりも一回り以上も年上の洗練された大人の男性に逢うせいか、とても緊張してしまう。 午前中早い時間に支度を終えて、後は落ち着けずに家のなかを熊のようにうろうろとしてしまった。 いよいよ待ち合わせ時間近くになり、香穂子は吉羅との待ち合わせ場所へと向かう。 吉羅ならどのような人込みにいても見つけられる。 香穂子の瞳には、世界一素敵なに落ち着いた男性に見えるのだから当然だ。 視界に吉羅の愛車フェラーリが飛び込んできた。 スマートな登場の仕方が、香穂子のこころを強く捕らえる。 ドキドキが最高潮になり、喉がからからになってしまう。 こんなにも魅力的だと思える男性に今まで出会ったことは、今までなかったのだから。 吉羅の愛車はゆっくりと香穂子の前に停止する。 吉羅はサングラスを外すと、窓を開けた。 その仕草すらもくらくらしてしまうほどに素敵だ。 仕事の帰りなのか、かっちりとしたスーツを着ている。カジュアルではないが、それがまた素敵に映る。 「お待たせしたね。乗りたまえ」 「はい。有り難うございます」 香穂子はにっこりとはにかんで笑うと、ゆっくりと助手席に座る。 特別な場所を許されたような気がして、とても嬉しかった。 |