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香穂子の笑顔を見ていると、他に何もいらなくなる。 「有り難うございます。私、本当に嬉しいです。ヴァイオリニストとして頑張りたいと思っていた時に、理事に援助を申し出て頂いて、本当に嬉しいです」 差し延べた手をこんなにも素直に受け取ってくれる。 これ以上に嬉しいことはない。 「では決まりだね。ただし、援助をする条件がある」 吉羅がわざと硬く響き渡る声を出すと、香穂子は緊張したのか身を硬くする。 果たして受けてくれるだろうか。 我ながら汚い手を使うと思いながらも、そうせずにはいられない程に、香穂子を愛しく思った。 勿論、誰よりも香穂子には喜んで貰いたい。 だから喜んで手を貸すつもりだ。 どうか受け入れて欲しいと、願うしかなかった。 「…あ、あの、条件って何でしょうか?」 香穂子が幾分か緊張ぎみで答える。声が震えているところをみると、どのような条件が出されるのか不安に思っているようだった。 だが直ぐに香穂子は腹に力を入れて背筋を伸ばして吉羅を見つめてくる。 どんな条件でも、言いなりにはならないと決めているかのような強さがあった。 その凜とした顔も、また美しい。 「…何でしょうか…?」 「…簡単なことだ。週一度、土曜日に活動状況を私に報告をすること。場所は、前日に連絡をする。食事をしながら報告をして貰いたい。夕方で構わないかね?」 吉羅の条件はシンプルだ。ただ定期的に逢う保証が欲しかった。 香穂子は意外に思ったのか、驚いてしまったようだ。 直ぐに気まずそうな顔をすると、考え込んでしまった。 「…あ、あの。申し訳ありませんが、土曜日の夕方はどうしても外せない用があるんです。だから、お昼にして頂くことは出来ますでしょうか?」 香穂子は穏やかに笑顔で言いながらも、毅然と凜とした態度を取る。 週末に共に過ごす相手がいるというのだろうか。 そう考えるだけで、こころのなかにどす黒い炎が燻るのが解った。 香穂子の相手が誰であろうと、負けない自信はあるが、それだけに余計に炎は燃え上がる。 香穂子は、吉羅にもブレない視線を真っ直ぐ浴びせた。 吉羅は、気に入らないとばかりに、一瞬、わざと気難しそうに眉を上げる。 だが、香穂子は凜とした態度を取り続けた。 今は追求しても何も言わないだろう。 逢うことに同意はしてくれたのだから、それだけで構わない。これから夕刻まで逢えるようにすれば良いのだから。 吉羅は一旦引くことにすると、軽く溜め息を吐く。 「…解った…。君のスケジュールに合わせよう。では、土曜日のランチタイムに報告を願う」 「はい、有り難うございます」 香穂子は自分の意思が通ったのが嬉しいからか、素直な笑みを浮かべた。 そんなにも無邪気で素直な笑顔を向けられてしまったら、胸のときめきが治まらなくなってしまうではないか。 吉羅は眩しく思いながら、何とか感情をコントロールをするように、淡々と口を開く。 「…連絡をするための携帯電話の番号とメールアドレスを教えてくれたまえ」 「はい」 何でもないことのようにさらりと言うと、香穂子は意外にも素直に応じてくれた。 女性らしい文字でメモに携帯電話の番号とメールアドレス書いて渡してくれる。 まるでとっておきのプレゼントを頂いたような気分だ。 「有り難う。これが私個人の携帯電話の番号とアドレスだ」 吉羅は、自分の名刺の裏に、必要なインフォメーションを書いて渡す。 「有り難うございます」 名刺を丁寧に受け取ってくれたのがとても好感が持てた。 「私から連絡をするからそのつもりで」 「はい、有り難うございます」 吉羅は頷くと、香穂子に手を差し出す。 香穂子の小さな手は、柔らかそうでしなやかだ。指先はとても繊細で美しく、思わず見とれてしまう。 指先が綺麗だと褒めようとして、逆に香穂子が吉羅の指先を見つめる。 「…綺麗な指先ですね…」 「私もかつてはヴァイオリンを弾いていたからね」 吉羅はさらりと答えると、香穂子を見た。 クールなまなざしを向けながら、握手をするように求める。 香穂子は緊張しているからか、ごまかすようにそろりと手を伸ばすと、 吉羅の手をしっかりと握り締めた。 吉羅の手は、香穂子を二度と離さないと、力強く握り締める。 薄い皮膚を通じて、香穂子が女を主張する熱を感じる。 それを受け止めると、益々恋心はときめいてきた。 「君の頑張りに期待している」 「…はい、頑張ります」 高らかに宣言する。 これが吉羅にとって、運命の恋の始まりだった。 香穂子に毎週逢える。 これ以上に嬉しいことはないと思いながら、吉羅はときめきを燃やす。 だが、香穂子が週末に過ごす吉羅以外の相手というのは、誰なのだろうか。 それが気になって仕方がない。 それが気に入らなくて仕方がなかった。 吉羅は香穂子に連絡を取る。 最初に携帯電話のボタンを押した時には緊張してしょうがなかった。 だが、こんなことは悟られてはならない。 我ながら、感情コントロールを身に着けていて助かったと思わずにはいられない。 吉羅は、予め登録をしておいた香穂子の携帯番号に掛ける。 すると直ぐに華やいだ声が受話器の向こう側から聞こえた。 「はい、香穂子です」 明るくて清々しい夏の風のような雰囲気がある声に、吉羅はフッと気分を柔らかくする。 「日野君、土曜日の報告だが、十一時半に山下公園前のカフェで待っていてくれたまえ。迎えに行く」 「解りました」 香穂子の弾む声を聴くと、本当にホッとする。 華やいだ優しい気持ちになる。 こんな気持ちを抱くなんて初めてかもしれない。 「では土曜日に。じゃ」 吉羅はわざと素っ気なく言うと、静かに電話を切った。 電話を切った後も、ディスプレーをじっと見つめてしまう。 土曜日が待遠しくなる。 これでいくら忙しいとしても乗り越えていけるような気がする。 香穂子に逢える。 その笑顔を独占することが出来る。 それだけで、吉羅の気持ちは高まってくる。 恋とはくだらないものだと思っていたのに、香穂子に恋をしてからというものの、恋は素晴らしい原動力になると感じる。 こんなにも素晴らしいことはないとすら思った。 香穂子と約束の日。 吉羅はいつも以上に緊張をしていた。 自分よりも一回り以上も年下の女性に逢うのに、こんなにも緊張してしまうなんて、思いもよらなかった。 午前中に仕事を軽く済ませた後で、吉羅は香穂子を迎えに行く。 香穂子ならどのような人込みにいても見つけられる。 吉羅の瞳には、瑞々しく輝いて見えるのだから当然だ。 視界に香穂子の姿が飛び込んできた。 瑞々しくも初々しい美しさが、吉羅のこころを強く捕らえる。 こんなにも美しいと思える女に出会ったことは、今までなかった。 ゆっくりと香穂子の前で車を停止させる。 吉羅はサングラスを外すと、窓を開けた。 立っていた香穂子は、明るいイエローに花があしらわれたふわりとしたシフォンのスリップワンピースに、白い半袖のボレロを着ている。 恐らく肌は日焼け止めしか塗っていないのに、きらきらと輝いているように見えた。 「お待たせしたね。乗りたまえ」 「はい。有り難うございます」 にっこりとはにかんで笑う香穂子が、夏のひかりよりも美しく見える。 吉羅はしばし見とれてしまっていた。 |