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「日野、ちょっと良いか?」 音楽学部声楽科の助教である金澤に声を掛けられて、香穂子は顔を上げた。 「今日、三時に応接室に来てくれ。お前さんの今後の音楽活動についての重要な話があるようだから」 「解りました」 重要な話。 それは一体何なのだろうと思いながら、香穂子は頷いた。 今後の音楽活動にプラスになることは間違ないと思いながら、何が待っているのだろうかと考えていた。 三時近くになり、授業も終えたので、香穂子は応接室へと向かう。 応接室にいるということは、相当高名な人物だろうか。 そう思うと緊張してきた。 背筋を伸ばしてノックをする。 「失礼します」 香穂子は緊張ぎみの声を出しながら、ドアをゆっくりと開いた。 扉を開いたそこには、スマートなイタリアンスーツルに身を包んだ、吉羅の姿があった。 相変わらず隙のない素敵さだ。 「…吉羅理事…」 吉羅の姿を視界に認めるなり、香穂子は大きな瞳を丸くした。 鼓動が激しく高鳴る。 自分とは違う世界に住んでいるひとなのに、何故だか手を伸ばしたくなる親近感がある。 「君と少し話したいことがあってね。構わないかね?」 「…はい」 「ではソファに掛けてくれたまえ」 吉羅が座るように促すと、香穂子は頷いて、腰を掛けた。 「…あの…お話って何でしょうか…」 香穂子は頬をほんのりと桜色に染め上げると、そっと俯く。 吉羅の顔を直視出来ない程に、ときめきを感じていた。 「…率直に言おう。君の演奏を何度か聞かせて貰ったが、非常に素晴らしい。…そこで、君にヴァイオリニストとして更なる飛躍をして貰うために、経済的にバックアップをしたいのだが…。どうかね?」 吉羅の言葉に、香穂子は驚いたように目を見開く。 こんなにも好条件はない。 あの吉羅暁彦が、経済的なパトロンになってくれるのだ。 「…あ、あの…私で構わないんでしょうか?」 「ああ。君にはもっとヴァイオリニストとして頑張って貰いたい」 ヴァイオリニストとして吉羅に認められている。 その事実が嬉しくてしょうがない。 吉羅の一言に、香穂子は嬉しそうに向日葵のような笑みを浮かべた。 「有り難うございます。私、本当に嬉しいです。ヴァイオリニストとして頑張りたいと思っていた時に、理事に援助を申し出て頂いて、本当に嬉しいです」 大好きなひとが手を差し延べてくれる。 これ以上に嬉しいことはない。 「では決まりだね。ただし、援助をする条件がある」 吉羅の声が硬く響き渡り、香穂子は緊張する余りに身を硬くする。 クリアすることが出来る条件を、果たして出してくれるのだろうか。 それを思うと、胸がチクリと痛くなった。 「…あ、あの、条件って何でしょうか?」 香穂子が幾分か緊張ぎみで答える。 どのような条件が出されたとしても、何が何でもクリアする気ではいる。 香穂子は腹を括らなければならないと思いながら、腹に力を入れて背筋を伸ばして吉羅を見つめた。 「…何でしょうか…?」 「…簡単なことだ。週一度、土曜日に活動状況を私に報告をすること。場所は、前日に連絡をする。食事をしながら報告をして貰いたい。夕方で構わないかね?」 吉羅の条件は意外過ぎるぐらいにシンプルで、香穂子は拍子抜けしてしまったほどだ。 だが、土曜日の夜は拙い。 教会でのボランティア演奏があるのだ。 その日だけはアルバイトも入れずに通っている。 楽しみにしてくれている子どもたちもお年寄りも多いので、それを外すわけにはいかない。 「…あ、あの。申し訳ありませんが、土曜日の夕方はどうしても外せない用があるんです。だから、お昼にして頂くことは出来ますでしょうか?」 香穂子は穏やかに笑顔で言いながらも、これだけは外せない用なので、毅然と凜とした態度を取る。 吉羅にもブレない視線を真っ直ぐ浴びせた。 吉羅は、気に入らないとばかりに、一瞬、気難しそうに眉を上げる。 こんなことで怯んではならないと思いながら、香穂子は凜とした態度を取り続けた。 吉羅は諦めたのか、軽く溜め息を吐く。 「…解った…。君のスケジュールに合わせよう。では、土曜日のランチタイムに報告を願う」 「はい、有り難うございます」 吉羅がその時間にスケジュールを空けてくれるのが嬉しくて、香穂子は素直な笑みを浮かべた。 「…連絡をするための携帯電話の番号とメールアドレスを教えてくれたまえ」 「はい」 吉羅に携帯電話の番号を教えるのに、ときめきを感じてしまう。 ドキドキしながら、拙い文字でメモに書いて渡した。 「有り難う。これが私個人の携帯電話の番号とアドレスだ」 吉羅は、香穂子に自分の名刺の裏に書いて渡してくれる。 まるでとっておきのプレゼントを頂いたような気分だ。 「有り難うございます」 名刺を貰った瞬間、嬉しさの余りに流石に震えてしまった。 「私から連絡をするからそのつもりで」 「はい、有り難うございます」 吉羅は頷くと、香穂子に手を差し出す。 大きな手なのに、指先はとても繊細で美しく、思わず見とれてしまう。 「…綺麗な指先ですね…」 「私もかつてはヴァイオリンを弾いていたからね」 吉羅はさらりと答えると、香穂子を見た。 クールなまなざしは、香穂子に握手をするように求めてきている。 香穂子は、慌ててドキドキしておかしそうになりそうになりながら、吉羅の手をしっかりと握り締めた。 吉羅の手も、香穂子を二度と離さないとばかりに、力強く握り締めてきた。 薄い皮膚を通じて、吉羅の男を主張する熱を感じる。 それを受け止めると、益々恋心はときめいてきた。 「君の頑張りに期待している」 「…はい、頑張ります」 高らかに宣言する。 これが香穂子にとって人生の始まりだった。 「え!? 吉羅暁彦にパトロンになって貰った!?」 大学校内のカフェテリアで、天羽は驚きの余りに息を呑んだ。 「菜美、しーっ! これは秘密だよ、まだ」 香穂子が宥めるように言うと、天羽は少しだけ声のトーンを下げた。 「憧れの吉羅暁彦と、どうやってパトロンになって貰ったの?」 「どうやって…って、言われても…、分からないよ」 香穂子も不思議に思いながら、軽く小首を傾げる。 本当に分からないからしょうがない。 何処かでヴァイオリンを聴いてくれていたからだと思うが、本当にそれしか思い付かなかった。 「まあ、ご縁があったんだよ! これをチャンスに憧れのひとにお近付きにならないといけないね?」 ニヤリと小悪魔よろしく天羽は微笑む。 「…近付くっていってもどうして良いかが分からないよ」 香穂子がはにかみながら言うと、天羽は真剣に怒ったようなまなざしを向けてくる。 「香穂子、そんなんじゃ大好きなひとはゲット出来ないよ? ただでさえ吉羅暁彦は百戦錬磨の恋の駆け引きなんてお手の物なんだからね。だから、こちらから果敢にチャレンジしていかなくっちゃ!」 天羽の力強い言葉に、香穂子は思わずたじたじになる。 「果敢にチャレンジって…」 「日野香穂子、小悪魔計画よ」 「小悪魔計画?」 小悪魔なんて、自分の性格からかなりかけ離れているような気がする。 香穂子は小首を傾げながら、天羽を見た。 「小悪魔って私に一番無縁のような気がするよ」 「何言ってんの! あんたの見た目は小悪魔そのものでしょ。仕草とかも小悪魔だよ。もう少し磨いたら完璧 小悪魔だよ。小悪魔スタイルで吉羅暁彦を落とすんだよ!」 「う、うん」 天羽の勢いに、香穂子は思わず頷いた。 |