*恋する惑星*


 日野香穂子を抱き締めたくてしょうがない。
 ここが財界のパーティ会場でなかったのなら、このまま抱き締めてさらって行くのに。
 吉羅は溜め息をこころでひとつだけ吐くと、香穂子をじっと見つめた。
 無垢なのにどこか妖艶さを秘めている。
 こんなにも清らかな雰囲気を持つ彼女に、官能を感じているなんて、全くどうかしていると吉羅は思う。
 もっと話がしたい。
 もっと見つめていたい。
 深く思っているのに、タイミングが邪魔をする。
 今日のパーティに何気なく連れてきた女が、吉羅の横にやってくる。
 美しく聡明で気配りが利くと評判の女性。
 だが、その内側にある計算高さを、吉羅は見逃してはいなかった。
 計算高い女は嫌いだ。
 完璧な彼女に全くのめり込むことが出来ないのは、そういった内面から来ているのだと、吉羅は感じていた。
「…暁彦さん、あちらの方がご挨拶をされたいと…」
 タイミングよく隣に現れたかと思うと、ぴったりと横にやってくる。
 良い香りだとは思うが、吉羅の精神に触る香りを漂わせている。
 妖花だと、冷静に思わずにはいられなかった。
 吉羅は、香穂子の気遣うような視線で、ようやく諦める。
 離れたくないが、ここは致し方がない。
「…解った…」
 吉羅はクールに答えた後、香穂子に向き直る。
「失礼したね、日野君。機会があれば、また…」
「…はい…」
 日野香穂子が微笑んでくれたことを嬉しく感じながら、吉羅は背中を見せるしかなかった。
 財界のパーティというのはビジネスの一環だ。
 楽しむ場所では決してないのだ。
 吉羅は後ろ髪を引かれる気分になりながら、パーティの雑談の輪に紛れ込んだ。

 ようやく挨拶を済ませて、吉羅が視線で香穂子を探すと、もう帰る準備をして、同じ年頃の青年と楽しそうに話している姿が見えた。
 加地代議士の子息葵だ。
 星奏学院大学の政経学部に在籍していると聞く。香穂子とも知り合いなのだろう。
 楽しそうに話す香穂子が、とても輝いて見えて、吉羅は苦々しい想いを抱く。
 自分よりも随分と年下の男に、ただならぬ嫉妬を覚えてしまっている。
 全く頭が狂ってしまったのかと、自分を嗜めずにはいられなくなる始末だ。
 日野香穂子にまるで中学生の初恋のような気持ちになるなんて、思いもよらなかった。
 苛々する。
 あのままふたりの間に割って入りたいとすら思う。
 だが、理性が邪魔をして上手くいかない。
 ここで感情をむき出しにしてはならないと、吉羅はクールで鉄壁な理性で、何とか乗り切ろうとした。
 精神衛生上、余りよろしくはないと思いながら。
 加地葵と話をする香穂子は、とても綺麗だ。輝いて見える。
 だが、吉羅にとっては、それがなによりも辛い。
 香穂子は、加地に手を振ると、そのまま帰ろうとする。
 吉羅は香穂子を引き止めたくなり、その場に行こうとした。
「暁彦さん、あちらでお父様がお呼びになっています。一緒に行きましょう」
 またタイミングよく邪魔をする。
 吉羅のこころを気付いているのではないかと思う程に巧みだ。
 ここでは追いかけないほうが良いだろう。
「…行こう」
「はい」
 吉羅は内心溜め息を吐きながら、女に着いていく。
 香穂子に甘酸っぱい想いだけを遺して。

 今日のパーティはぐったりしてしまった。
 疲れが出て、思わずベッドに倒れこむ。
 頭取の娘には、さり気なく夜る秘め事に誘うように仕向けられたが、吉羅はそれには乗らなかった。
 そんなことをする気もなかった。
 今まで、誰かをここまで好きになるということはなかった。
 恋なんて、馬鹿らしいとすら思っていたのだ。
 ずっと自分に利益を得る相手と結婚すると思っていたのに、そうではないことに気付いた。
 日野香穂子だ。
 あんなにも切なくも甘い想いを抱いた相手はいない。
 日野香穂子の向日葵のような笑みを思い浮かべるだけで、吉羅のこころは楽しくも幸せな気分になり、そして痛くもなる。
 幸せで痛い感情なんて、今まで知らなかった。
「…どうしてしまったのかな…。私は…」
 吉羅は宙に向かって溜め息を吐く。
 ずっと、頭取の娘のような女と結婚すると信じていたのに。
 なのに彼女とは、どんな関係も持てそうになかった。
 いや、最早、誰とも気軽な関係は持てないような気がする。
 吉羅は強くそれを感じていた。
 日野香穂子以外の女を抱くことなど出来ないのではないかと吉羅は強く思っていた。

 理事であることを良いことに、経済力があることを良いことに、吉羅は香穂子のパトロンになることにする。
 先ずは経済的な援助をすることで、信頼を勝ち得たかった。
 何よりも香穂子には快適にヴァイオリンを学んで欲しかったこともある。
 吉羅は、早速、星奏学院音楽学部の教員で、知人で先輩でもある金澤に連絡することにした。
「吉羅! 久し振りだな!」
「お久し振りです金澤さん。突然で申し訳ないのですが、日野香穂子というヴァイオリン専攻の生徒をご存じではありませんか?」
「日野? ああ、ヴァイオリン専攻のなら、よく知っているぜ。あいつはヴァイオリニストとしてはホープだからな」
「その彼女に、もっと素晴らしいレッスンを受けさせるために援助したいと思っています。彼女とコンタクトを取って頂いて構わないですか?」
 吉羅がクールに言うと、金澤の声は弾んだ。
「そいつは喜ぶだろう。あいつは奨学金を受けているからな。相当喜ぶだろう。音楽環境をよくしてくれるのは賛成だ」
「有り難うございます」
 吉羅は、話が通しやすくてホッとする。
「で、お前さんは相当仕事が忙しいだろうから、スケジュールは合わせるようにしよう。日野が学院に来ていれば、簡単に呼び出せるから、土日を避けて貰えば良い何時が良いんだよ?」
「そうですね…。明後日の昼過ぎが…」
「あいつの授業状況を確認して細い時間は連絡する。
「有り難うございます。では宜しくお願いします」
「おう」
 吉羅は携帯電話を切ると、思わず苦笑いを浮かべずにはいられなくなる。
 こんなにも誰かに対して積極的に恋をしようと思ったのは初めてなのかもしれない。
 それほど、吉羅は香穂子を愛しく感じていた。

 金澤に午後三時に設定して貰い、吉羅はギリギリの時間で星奏学院へと滑り込む。
 吉羅が応接室に入って直ぐに、ためらいがちにノックがされた。
「失礼します」
 日野香穂子の緊張ぎみの声と共に、ドアがゆっくりと開かれる。
 扉を開いたそこには、カジュアルなワンピースを着た香穂子の姿があった。
「…吉羅理事…」
 吉羅の姿を視界に認めるなり、香穂子は大きな瞳を丸くする。
「君と少し話したいことがあってね。構わないかね?」
「はい」
「ではソファに掛けてくれたまえ」
 吉羅が座るように促すと、香穂子は頷いて、腰を掛けた。
「…あの…お話って何でしょうか…」
 香穂子は頬をほんのりと桜色に染め上げると、そっと俯く。
 その顔がとても綺麗だった。
「…率直に言おう。君の演奏を何度か聞かせて貰ったが、非常に素晴らしい。…そこで、君にヴァイオリニストとして更なる飛躍をして貰うために、経済的にバックアップをしたいのだが…。どうかね?」
 吉羅の言葉に、香穂子は驚いたように目を見開く。
 その顔はとても綺麗だ。
「…あ、あの…私で構わないんでしょうか?」
「ああ。君にはもっとヴァイオリニストとして頑張って貰いたい」
 吉羅の一言に、香穂子は嬉しそうに向日葵のような笑みを浮かべた。
 殺人的な美しさだった。



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